2008年4月6日日曜日

再開です。

昔から思っていたことに、中世以降、幕府とかの治世は3代目将軍くらいの時期が黄金期なのかな、と思っていました。例えば鎌倉時代なら執権・北条泰時、室町幕府なら足利義満、江戸時代なら徳川家光。で、それ以降爛熟期が続き、次第に下降線を辿っていく。下降線が分かるのが78代目以降なのかな、と。後は時代の趨勢やそのときの事情によって寿命の長短はあるにせよ次世代政権に移り変わる、という大まかな流れなのかな、と。

で、この3代目の時期というか年数は、という事になるのですが、だいたい創業30年から50年くらいにあたるのかな、と思っています。

ちなみに北条泰時の3代目執権就任は、鎌倉幕府創業1185年(ここでは、頼朝の将軍就任時ではなく、全国への守護地頭の設置時を創業としています)より数えて39年目1224年です。
足利義満の3代目将軍就任は1368年。建武式目制定の1336年から数えて32年目にあたります。以降、1394年が、在位期間。創業より58年目までですね。
江戸時代になると1600年、関が原合戦を創業とすると家光の就任は1623年、23年目。もしくは秀忠の死去を実質の将軍就任とすれば1632年で32年目となります。以降1651年までが家光の治世になりますから51年目までという事になります。

で、何が言いたいのか、というと。つまるところは現代の政治機構の話な訳です。基本的には今の政治機構というのは明治時代に形作られ、紆余曲折はあるにせよ現代に至る、という流れなのかなと思っているわけですが、(あ、今日の記事全体に言えることですが、この辺も、あくまでも柴田解釈というか思い込みなのであまり突っ込まないでください)そうすると明治時代45年、大正時代15年、昭和時代64年。

昭和20年、1945年を一つの区切りとすると、ここまでで80年。昭和20年を再出発として現在平成20年ですから現在63年目。明治時代から数えて143年目。江戸時代でいえば吉宗の治世くらいの時期です。

吉宗の「享保の改革」は当時としては一応の成功を見た、という事にされてはいますが、でも実のところ大した成果が上がっていないようにも思います。ま、せいぜい現体制の延命に一役買ったぐらいではないのかな、というのが個人的な感想。

もうね。政体というのか組織というか。そういう体制としては時期的に旬を過ぎてしまっているように思うのです。持ち回りで虚ろっていくだけの首長と実態の在るのか無いのかよく分からない持ち回りの権力。選挙という名の「通過儀礼」と主義主張(というかポリシー←節操という意味も含めて)の見えない圧力団体という名の目に見えない現状維持への圧力。では一体誰が、どういう層の票が投票結果に影響を与え、声になっているのかな?

安堂さんの「らかす」中に「集団の誤謬」(でしたっけ?)という心理学の言葉が出ていました。個人的に、この言葉というか考えには、ものすごく頷ずけています。たしかに、公務員個人個人として、部門毎の考えとしては良かれ、と思ってやっているのかもしれない。ただ、全体の方向としてあれ?という方向に向いている。で、それをコントロールする術や体制が非常に拙い。もうね。パッチワークじゃダメだと思うんですよ。あっちを立てればこちらが立たずで、あんまりコンピューターには詳しくないので適当な表現かどうかは分かりませんが、フローチャートへの書き足しや枝分かれが多すぎ、制御項が多すぎて、全体がフリーズしかかっている。

民間企業の大組織なら、それは倒産の憂き目にあったり解雇されたりという道を辿り自業自得、という事になるのでしょうが、お国という組織はなぜか大嘘をついてもいい事になっているようで。

「根太は腐り、屋根は落ち、建物が崩壊しかかっている」とは、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」の中、大政奉還の説得の場面で永井主水正に対し江戸幕府の現状を評した喩えです。それに対し永井主水正は「いや、補強する方法はある」と言っていますが、それは今風に言えば「外資を当てにして」治安維持をし、秩序回復を図る、という事ですが、その見返りに自国の植民地化を認める、ということでもありました。果たして何時の時代のお話なのか、ちょっと戸惑ってしまうくらいです。

さっさと建て替えを考えるか、組織としてウソをつけない仕組み作りから創めるか。さてさて。

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