2008年10月25日土曜日

co-op

安堂さんには先ほどお詫びのメールを入れました。先ず「ごめんなさい」と、ひとこと言っておかないとどうも更新する気になれなかったからです。
今後できる限りの注意を払うようにいたしますので、先日の件は重ねてお詫び申し上げます。ごめんなさい。


さて。
最近新聞を読まなくなりました。以前は日経新聞を取っていたのだけれど、なんかつまらないので購読を止めたのです。で、無きゃ無いで、そのように通してしまっているので、まあいいや、と新聞のない生活にすっかり浸かっているこのごろです。

ですのでこれは、どこかで書かれているのかもしれませんが、「CO-OP」。またしてもコープ、つまり生協の品物で薬物が検出されたとか、いないとか。ん?

そうそう。例の農薬ギョーザも生協の品物だったですよね。

でも生協って、名の通り「生活協同組合」ですよね?組合員の為に、組合費を払っている人だけのスーパーとかやってるとこですよね?そういうところで、そんな品物なんですか?別に中国を工場として使って、安くて質のいい食品を安定的に供給するということは、とてもいい事なのでしょうけど、どっかで目的がすり変わってきていることってないですか?どっかの国の公務員たちのように。住人の為ではなく、自身の保身の為に、という風に。

どっかの衆議院議員のように「国会議員は年収4千万なんですよね」とか、あれって間違っても言ってはいけない事だと思うんですよね。その時点で議員としての倫理観念はありませんって公言してるようなものだと思うんですけど。
たしかに職業の1つなんでしょうけど、職業・家業としての意識じゃまずいでしょう、あれは。それこそ、あの発言は、もっと問題にしてもいいと思うんですよね。それこそ松岡君や赤城君や禿のおっさんよりも本質的に悪質だと思う。却って邪気が無いだけに素で言ってる訳でしょう。てことは「そんな馬鹿でいいのか?」ってね。まあ、選んだ人の代表なんだから母体もそうなんだ、と言われればぐうの音もでないか。はあ。




2008年10月19日日曜日

パッケージングと運転姿勢

コロパパさんのHPにて、運転姿勢や車のパッケージング、などについて触れられていましたので、私見も交えてちょっと。

文中、アテンザの主力市場が日本以外にあるから、向こうの人の体型に合わせているのでは?というところについて。
別にマツダを擁護するつもりはありませんが、個人的には「ま、こういうこともあるのでは」といった程度のコメントを。
基本的に日本向けのクルマでは交通事情がありますから当然右ハンドルで設計します。欧州ではイギリスを除く全て(?)の国が左ハンドルであるやに聞いております。
いきなり何を言い出すかというと、クルマというのはその運転装置の配置の関係上、左ハンドルに比べて右ハンドルのクルマは、少々運転席の位置が後ろに行きがちになってしまうということがあります。
コロパパさんは以前北欧の方にいらしていたことがある、という文章がありました。柴田自身は殆ど国外には出たことがないし、日本国内で運転する以上は左ハンドルは不便で仕方が無いので乗らないことに決めているので、あんまり自分の経験の裏打ちはありません。
が、左ハンドル車の場合、ホイールハウスと呼ばれる室内へのタイヤの膨らみをフットレスト(左足の)スペースとして利用することによりペダル配置を10cm前後、前方にずらすことが可能だと聞いています。
で、その辺の設計共用の辻褄を合わせるようにチルト・テレスコピックハンドルなどの位置の調整機構が採用されている、というのは穿った見方になるでしょうかね。

ここ数年、トヨタのFFのコンパクトカーは初代ヴィッツ、ビスタ・アルデオ、初代プリウスの頃を皮切りに軒並み150センチくらいの全高を実現してきました。こうすることにより、従来の身長の低いクルマで当たり前とされてきた、足を前方に投げ出して、シートを倒すという安楽椅子のようなシートポジションがばっさりと否定されたと思っています。(今でもそういう運転姿勢をとっている人は少なくありませんけども)
全高が高くなったことにより、床面と座面の高低差が大きく取れるようになりました。するとソファーのような座り方から事務椅子のような座り方に変わり、同時に膝の曲がりの角度が直角に近い角度となります。こうすることによって運転ペダルをエンジンルームの奥深い所に配置する必要がなくなりました。
このため比較的こうしたプロポーションのクルマは、運転姿勢が合わせ易い傾向があるように思います。つまり、右でも左でも適正位置で設計できるということです。ただ、自分的には、惜しいことにハンドルポストの位置(ハンドルの中心軸)がけっこう低い位置から突き出ているので、膝周りのスペースが少々窮屈になってしまっているのが残念な所です。
アテンザは、以前から比べれば背も高い車ではありますが、車のキャラクターもありますから、比較的低い(座面と床面の高低差があまり取られていない)ポジションで設定されていませんでしたっけ?これが理由のひとつかな、と思うのですが。

エアバックという装置があります。基本的には火薬を使って、その爆風で布製の袋を膨らませ、乗員のケガを低減させるのが目的の装置です。ただ、風船が膨らみきったその時に乗員の顔面を受け止めるのではカウンターパンチを受けた状態になります。このため、乗員の顔なり胸を風船が受け止めるタイミングは「既に膨らみきった後のしぼみかけた状態」が理想です。
理想的な運転姿勢といわれるのは、コロパパさんが仰っていたようにシートの奥深くに座っている状態で、手を前に伸ばした時に、ある程度余裕がある状態でハンドルの輪の上端が手首の辺りに来る位、と言われています。で、これをまともにやるとハンドルがかなり近い位置に来ます。でも、これがエアバックの設計時にも標準状態として設計されている姿勢です。風船の容量は大体運転席で60リットルくらい。助手席で120リットルくらいとされているようです。
先ほどの理想的な運転姿勢をとろうとすると随分とシートが前に来て、更にシートの背もたれもかなり立てた状態になると思います。そう。殆どの人はシートが寝すぎています。エアバックメーカーの人の話ですと背もたれの理想角度は21度くらいだそうです。もしや、と思った方は御家族の方に協力してもらって、写真を撮ってもらってから測ってみてはいかがでしょう?
では、シートが寝ているとどうなるか?つまりはシートベルトが肩から浮いている状態ですね。
エアバックが作動するような衝撃がクルマに加わった場合、まずクルマが行うのはシートベルトの締め付けです。とにかく乗員をクルマに固定しようとするのです。それでもシートベルトは乗員の重みで伸びます。そのシートベルトで支えきれなかったエネルギーをエアバックで吸収しようとするのです。
シートバックを立てて、シートに深く座っている人は、きちんとシートベルトが体に密着しているはずです。この状態ならば、さっきのように車がきちんと乗員を守ろうとする動きが効果を発揮してくれるでしょう。
ですがシートを寝かせて、座面にも浅く腰掛けている人は、シートベルトがうまく作動しません。いくらクルマが乗員を固定しようとしてもうまく固定しきれず、運動エネルギーが相殺されることなく前方に突っ込んで行きエアバックのカウンターパンチを食らうことになってしまうのです。つまり、エアバックは「きちんとした姿勢でシートに座り、更にきちんとシートベルトをすることによって初めて被害を軽減できる役目を果たせる」という性格のものなのです。


という事で、きちんとシートベルトはしましょうね。
警察はシートベルトを五月蝿く言いますが、個人的にはそんなことは行き過ぎたお節介だと思うんですよね。いくら言ったってやらない人はやらないもん。実際。
結果、その人が大怪我をしたところで自己責任じゃん、というのは酷い物言いなんですかね。それこそ保険の治療費の支払いもシートベルとしてなかったときは2/3とか、1/2くらいに削減するってくらいでいいんじゃないですかねえ。いい大人なんだから取り締まられるからシートベルトをするなんて恥ずかしいじゃない。そのくらいの結果責任は受け入れるべきなんじゃないのかなあ。とまあ、いつもの余分なことまで言ってしまいましたが、今日はこの辺で。

2008年10月18日土曜日

あらら

安堂さんに随分と持ち上げられてしまいました。文章を目で追いつつ、思わず「あらら...」と呟いてしまいました。うむむ。

で、まず反省点。
普段お客さんとしゃべっている時に必ずといっていいほど持ち歩いているのがサインペン(ラッションペンみたいな先の太い奴)と、A4の紙を何枚か留めたバインダー。何に使うかというと、そこに絵を書きながら説明する訳です。もちろん普段は顔色というか表情を見ながら話をしますので「あ、この人はこの話についてこれなくなっているな」と感じると、ちょっと待ってね、と言いつつ上記の秘密道具を取り出して「こうこう、こうなっていて」と説明する訳です。

ところがブログ上では相手の表情が読めないので、ついつい流して書いてしまう所があります。安堂さん、わかりにくい文章でごめんなさい。

大丈夫ですよね?とありましたが、どういう状況か、どの程度のパンクなのか見ていないので、返答の仕様がないんですよね。実際。
まあ、ただ、文中の感じからするとおそらく釘を踏んでしまい空気が抜け始めたばかりの状態だと思いますので、ゴムの痛みを心配しなければならないほどのタイヤのひしゃげがあったわけではないと思います。いいんじゃないでしょうか?
もし、ご心配な様であれば、欧州車ってスペアタイヤが標準サイズだったと思いますので、今回のドライブ中だけそのスペアに入れ替えておく、というのはいかがでしょう?あ!ランフラットだからスペアを積んでいない?BMWの車両状態を知らないや。

 
 ちなみに「たんこぶ」って表現したのはこれのことです。
この方の場合、おそらくは縁石か、それに類する段差に乗り上げたことが原因かと思われます。
で、中のワイヤーが切れたことにより写真のようにそこだけ張力を失って「たんこぶ」が出来てしまったと。こうなると、想定しているタイヤの強度が出ませんので、最悪バーストしちゃうかな?という事になるので「交換です」となります。


今回は写真付にしてみました。これなら判り易くなりますか?

2008年10月14日火曜日

ランフラットタイヤ

安堂さん主催のHP「らかす」で、ランフラットタイヤについて触れられていました。おそらく氏の事ですからユーモアに包まれた格好で脚色がなされているのでしょうが、文中出てきた「若い男性(ディーラーで最初に電話口に出た人)」のような人も少なからず居るでしょうから、知っている限りのことを書いておくのも良かろうと思いました。


自分の経験の中で言うとランフラットタイヤが登場し始めたのは平成13年ごろの事だと思います。初めて納めた装着車は、あの屋根の開く電動オープンカーになった形のソアラです。
当時カタログにあった謳い文句では「とにかくトランクルームが狭いので、ゴルフバックを納める必要のある方はメーカープションの『ランフラットタイヤ』をお選びください。」となっていました。
最近はパンク修理キットでお茶を濁すクルマもありますが、基本的には「パンクをしても、ある程度の距離は自力で何とか移動できるような内容の装備品を備えていること」という内規か法令でもあるようです。
つまりソアラの場合は屋根を仕舞う必要上、スペアタイヤのスペースを犠牲にでもしない限り、トランクルームには余計な物など入る余地は無い、ということですね。このためオプション扱いとはいえランフラットタイヤが比較的速い時期に市場投入されたわけです。



さて、忘れないうちにそろそろ本題に入りたいと思います。ランフラットタイヤの一番の売りは、完全にタイヤの空気が抜けてしまった場合でも、そのサイドウォールのゴム層を厚く作ってあるおかげで100キロ程度は自走が可能である、ということです。

何でサイドウォールを厚めに作ってあるかというと、そこを厚く作ることでホイールのリム(ヘリというか耳というか)を保護しようということです。何でそこを保護するのかということですが、おそらくアルミホイールを想定しての事でしょうけど、アルミホイールは軽い(必ずしもそうでない場合も多数あり)のはいいのですが、てっちん(鉄製ホイール)に比べると材質として粘りが無いので、つまりは衝撃に弱い。特に直接大きな衝撃が加わった場合、ホイールそのものが割れてしまう場合もあるやに聞きます。
もうひとつの理由は、今時のクルマのタイヤというものは、その殆どがチューブレスタイヤだということです。昔はタイヤの中にチューブが入っていましたが、今はその代わりにホイールのリムとタイヤが密着することで気密性を確保していますから、ホイールが割れてしまうのは論外ですが、変形してしまってもその後の再使用が出来なくなる可能性が高いのです。
まあそんなこんなで、ホイールにゴム草履を履かせて、何とか最悪の事態を防ごう、という発想なのです。おそらく銃弾でパンクしてしまった時などを想定しているのでしょうね。


安堂さんのBMWが、どの程度のパンクであったのかは知る由もありません。が、おそらく途中から空気圧警告灯が点いた、という事や、真新しい釘が刺さっていた、という事から走り始めて間もなく釘を踏んでいたのでしょう。
おそらくその程度であれば、パンク時の対応は普通のチューブレスタイヤと同等の感覚でいいと思われます。つまりはトレッド面でのパンクならば修理が可能ということ。

ソアラでもランフラットタイヤ装着車には空気圧警告装置が付いていました。ちなみに、夏に規定の空気圧で調整してあった状態で、冬の寒い時に警告灯が点く位敏感でした。
想像するに、空気が完全に抜けてしまった場合の走行可能距離は、応急用タイヤに比べてランフラットタイヤのほうが短い事。また、100キロ程度は走れる、とは言っても路面状況によっては「絶対に大丈夫」という事を言い切れるのか?(つまりは「走ることが出来る」ではなく「走ろうと思えばできなくもない」という程度。あくまでも緊急用。)ということなのでしょう。なるべく早くに気付いてね!という意味で空気圧警告灯が付いているのでしょうね。

ちょっと話は変わりますが、タイヤというものは、あらかじめ想定された空気圧の空気が入ってこそのゴムの袋です。つまりは規定の空気圧分の空気が充填されいて、初めてトレッド面がきちんと地面に接地し、サイドウォールがパンと張りタイヤのケース剛性、その他を成立させています。
では、その空気圧が少ないとどうなるか。所定の性能を維持できません。たとえば、規定の空気圧ならば地面からの衝撃に対するタイヤの変形も想定の範囲内なのでしょうが、規定以下の空気圧になると、所期の想定以上の変形の連続はタイヤの発熱にも繋がります。つまりはゴムが劣化してしまう、ということですね。
特に完全に空気の抜け切った状態での使用はゴムの発熱もかなりのものでしょう。それに加え、タイヤの中に組み込まれているビードワイヤーなどのタイヤの構造物への影響も少なくないでしょう。それを考えると、完全に空気の抜け切った状態で使用してしまった場合には、距離の多寡はとりあえず交換を考えた方がいいのかな、と思います。
自分ならどうするか?うーん。とりあえず、あんまり距離を走っていない様なら、まず空気を入れてみて、タンこぶが出来ていなかったら(カーカスが千切れていないことを確認してから)恐る恐る乗ってみるってところかな。しばらくはあんまりスピード出さないようにして、タンこぶが出来ていないか観察は続けるでしょうね。
ただ、交換するのはいいんだけど、ランフラットタイヤを舐めているととんでもない目に遭います。何かって言うと高いんですよ、金額が。既出のソアラの場合(ブリジストンの18インチ)、4本で16万強(つまり1本4万くらい)かかりました。あんときには「え?」って自分の耳を疑いましたもん。しかも、サイドウォールが硬いのでおそらく、その辺の一般業者では交換作業が出来ません、というか実際断わられましたので、その時はメーカーの営業所に持ち込んで、そこで交換してもらいました。

ただ、さすがに日本国内ならば銃撃戦に巻き込まれることは滅多にないでしょうから、警告灯に気付いたら、なるべく早く任意保険に大体付いているであろう付帯サービスのパンク修理を依頼して、おとなしく修理業者の来るのを待っていたほうが無難かと思います。


ま、そんなところでしょうかね。
というわけで今日はこの辺でおしまい。

2008年10月12日日曜日

室町時代

以前、今の世相は室町時代に酷似しているのではないか?というようなことを書いたような書かなかったような?

論拠としては。
力のありそうでなさそうで、コロコロ変わる首相(室町将軍)や、力はありそうなんだけどとは言いつつ首相になって強権を振るうほどの声望は無いし、実力も定かではない各管領(各派閥の首領と言われる人)たちと、何世代にも亘って各地方に勢力を張ってきたがゆえに名族ではあっても、族長というだけの存在に成り下がっているっぽい2世3世議員たち。で、バブル崩壊(応仁の乱勃発)以降、だらだらと誰がどうするでもない政争を続けている。
各地方では、力の無くなった中央政府の意向を無視して経済活動にいそしんだり(トヨタ自動車)、それぞれの勢力(寺社勢力や各荘園)を背景にしつつバラバラに動き出している(創価学会、特殊法人など)。
こんな感じですかね。柴田の大きらいな有料道路など、当時いたる所にあった関所の通行料となんら変わるところはありません。いくら市で幾ばくかの金銭を得ても通行料で身ぐるみ剥がされていく、という。
そう思うと、最近各地でもてはやされ始めている著名知事などは、守護(戦国)大名のはしりになるのかもしれません。橋下さんや田中さんや。そのまんま東は個人的にどうも胡散臭く思っているのでここでは様子見という事にしておきます。
冗談半分、まじめ半分として、静岡県知事にヘッドハンティングしてもいいのではと思うこともありますね。

日本史の流れとしてはみなさんご存知の通り、その後戦国時代の戦乱(というよりブロック経済圏を束ねる領主同士の小競り合い)をへて、次第に有力な地方政権が確立してゆき、織田信長の登場となる訳です。

ある意味、信長が日本史上の奇跡だと思うのが、よくあそこまで世間や周囲に後腐れの無い人物が存在できたものだ、ということです。大体周囲に潰されるんですよね。
例えば、秀吉などは若い時期に浜松にいますが、周囲に嫌われて愛知に逃げ帰っている訳ですし、似たような例だと若き日の本田宗一郎なども「赤シャツ」などと陰で言われて浜松を後にしています。浜松製作所はあるにしても、メインバンクは東京三菱ですしね。当時、融資の相談に(あの)静岡銀行を訪れた所、あっさりと断わられたんだとか。

しかもそれに続いて秀吉という類を見ない働き者が近くに居た事。信長があそこまで我儘でなければ中世の怨霊じみた地方勢力や地縁・血縁、流通経路や価値基準など、あそこまで劇的に雰囲気を変えることは出来なかっただろうと思います。
そういった意味で言えば、小泉君などは幕末の山内容堂なみの一時の声望はあったにせよ、彼同様、信長を意識しつつ、その足元にも及ばなかったと言う点でもそっくりだったように思います。



ここのところ思うのは、既に「議院内閣制」を核とした間接民主主義そのものが崩壊しかけているのではないか?ということです。
つまりは、住民の(多数決によって)信任した議員による、そのまた(多数決による)信任の結果は、住民の信任する首長なり、議決結果たり得ているのかな?という結果になってはいまいか、とね。
先ほどの有名知事などは議会に拠って立っていると言うよりは、直接住民の声に拠って立っているわけです議会との軋轢はものすごいようですが。旧来の有権者団体と実際の多数派の意見とは、如実に差が出てきているのでは?と思うのです。

そりゃ、投票率50%近辺の多数派と言われてもねえとも思うのですが。しかも各地方の議員は小選挙区で争われるという事は、特に候補者数が3人とかになった場合死票の数も馬鹿にならない数にのぼる訳で。
こう思うと、共産党の律儀に「各選挙区に何が何でも候補者を一人必ず立ててくる」のも、却って票をばらけさせることは死票の増加にもなるわけで、どんなもんかな、ともおもってしまいます。


まあ、そんな訳で何時まで室町時代が続くんでしょうかね?

2008年10月9日木曜日

湊屋藤助

何度かご登場願っている「らかす」中に度々紹介されていた「湊屋藤助」という日本酒があります。
柴田自身は、あまり日本酒を嗜まない方なので、あまり詳しくは知らないのですが、文中、あちこちで採り上げられていました。まあ、飲兵衛を自称されている安堂さんの事ですからおそらく美味しいのでしょう。

なぜ、こんな話を始めるのかというと、お客さんの中で家を新築された方とお店を新たにオープンされる方がいらっしゃるのです。今までに随分とお世話になってきた方であったので、何も言わずに知らん顔、という訳にもいかんだろう、と。というところで、何か新築祝いを、と思ったのですが、ありきたりのものではつまらない。

お客さんの中で凧時計を作っていらっしゃる方があります。大雑把に言えば時計の文字盤に和凧を使っているものです。もちろん大きさは時計に合わせてているので、ミニチュアサイズですが、骨などは浜松祭りで作られる大凧と同様にしつらえてあるようです。
で、これをとも思ったのですが、ぶっちゃけたはなし、時計そのものの機械部分は汎用品の安物です。今時これを、というのもなあ、とも思い返して却下。7千円位するしね。


新装開店で花輪なんてのも考えましたが、あんなもの貰っても萎れてくるだけだしねえ。
というわけで、急遽無難なお祝いのお酒、という線に落ち着きました。
そんな訳で、ふと思い出したのが湊屋藤助なのです。
近所の酒屋にあるかな?とも思いましたが行って無駄足なのもつまらないのでネット通販で買うことにいたしました。3本。
1本はKさんの新築祝い用。
1本はTさんのショップオープン祝い。
もう1本は?


もちろん自分用に決まってるじゃないですか。せっかく人にあげるのに、自分の飲んだことのないお酒というのもツマラン。せっかくだから飲んでみたいじゃない。

さっき注文を出しましたので、1週間位でくるのかな、と。

ちょっと楽しみが出来ました。

2008年10月7日火曜日

お金と金融工学という名の数学

タイトルは大げさですが、中味は大したことはありません。なぜって、僕は数学の落ちこぼれだから。
中学まではソコソコどの学科であろうとも、ソコソコついて行けたように思っていたのですが、高校からは興味の対象を見失ったのか、はたまた舐めてかかっていたからか、こと数学に関してはさっぱり馬鹿たれになってしまっていました。
ブルーバックスシリーズに、「今から始める高校数学」とかいうタイトルの本があったので、興味本位に買って見開いてみたことがありますが、中には耳に痛い指摘が書いてありました。

曰く、英語のできる生徒は、同様に数学のできる生徒とイコールであることが多い、と。

つまりは外国語の習得などという地道な努力を要する学問は同様に、地道に論理を積み上げる練習を重ねなければならない数学と、その習得に要する課程が重なることが多く、結果、数学が出来る生徒は英語が出来る、という事と多くは重なっている、とか何とか。
そういえば、幕末の洋学者でも、オランダ語・英語の熟達者が同様に科学、数学分野の熟達者であった例が多かったような。例えば大村益次郎とか。うーん。痛い。つまり怠け者であったわけですね、僕は。

さて、そんな怠け者が思う戯言ですから、これ以降のことは本気にとってもらっても困るのですが。

以前ここで採り上げた、「スターシップ・トルーパーズ」邦題「宇宙の戦士」ですが、ここにも主人公ジュアン・リコの前に大きく立ちはだかる壁として数学が登場します。
学生時代、数学を苦手としていた主人公は、高校卒業後の入隊志願後に、希望所属先をずらずらと出すのですが、そのことごとくに数学の点数が立ちはだかり希望を却下されます。ついにはそのリストの一番最後に書かれた起動歩兵に配属となります。
後に、主人公は職業軍人として、キャリア(任官)を目指すのですが、ここでも、またしても数学が立ちはだかるのです。文中では「数学は全ての基礎であり、全てに関わっており、.....」と言った文章で表現されています。まあ、これは前置き。

昨日、自動車評論家の両角さんのメールマガジン中で、金融工学について触れられていた箇所がありました。それでこんなことをツラツラと思い出したのです。

確かに数学は、途中課程をすっとばかすと丸をもらえない教科です。こうこう、こうなって、そのうえで、と、キチンとしか思考過程を経ないといけません。まあ、中には数学は暗記するものだと言う人もいますが、そういう人のことはここでは措いておきます。
「宇宙の戦士」中のジュアン・リコも、士官たる者きちんと筋道の通ることすら言えず、またその訓練すらまともに終了できないものは任官するべきでない、という作者の思想なのでしょう。

ただ、金融工学、もとい高等数学に話を戻すと、話・論旨の筋道は兎も角、その前提条件にちょっとした飛躍を含めたり、ありえない前提を含めることによって、いくらすばらしい論旨も、まったくあさっての方向を向いた結論にたどり着くことも珍しくないと思います。

大学時代、心理学の講義を取った事があります。講義中、教授が言うことには「世論アンケートなど、質問の仕方で如何様にもその結論を誘導することは出る。問題はいかに意図的な操作が反映することにならないようにするための設問の仕方だ」といっていましたが、これも似たようなことか?

両角さんの指摘は、今時の金融工学にも、そのような前提条件や「ある任意の....、」といった条件付けに瑕疵があったのではないか?という論旨でした。
金融商品そのものが投機的な側面を有する以上、そこに意図的なものを含まず、市場の公平性などと呼ばれる様々な思惑の結果にイカサマがあってはならないのは当然のこととは思います。ですが、果たして彼らの理屈が果たしてどこまで正当性があるものやら。残念ながら、僕にはその検証能力がまるきりありませんので悔しい所です。
ただ、いくらリスク分散しているからといって「サブプライムローン」などは商品にすること、そのものがイカンだろ、と思うのですが。
てことは理屈や策などというもの以前の一般常識として、というか理性というか。

静岡銀行がバブル時、一切土地投機筋への融資を行わなかったことで、その後の不良債権がらみのゴタゴタに振り回されることがなく、為に、後に銀行としての信用を一気に高めた、とは良く言われることではあります。
でもまあ、静銀といえば、地元では「シブ銀」と言われ、お金を貸さない、金利高い、手数料高い、の3拍子揃った所なので、それが巷間言われている「高い見識によるものであった」のかは疑問の残る所ではあります。
まあそれは兎も角、世間の動きに惑わされずに、本業の精神を貫くと言うのか。お金を預かる金融機関としての矜持というのか。そういうところからやり直さにゃあイカンのじゃないかな、と思うのですが。

そうそう、行き過ぎた原油価格もそうですが、市場の動きは神の声として、市場の往くに任せる、というのがあるじゃないですか。ですが、市場の中の動きだけに納まればいいのですが、そうばかりでもなく、あまりにも影響の大きすぎる分野でも、ある意味放任主義でありすぎるように思うのですよね。
これに対するレフリーストップというか、取引停止に至るガイドラインというか。ものすごい反発はあるでしょうけど、金融と実態の均衡を探る動きが出て.......、来ないだろうなあ。

今日はこの辺でおしまい。



2008年10月5日日曜日

以前、どこで書いたか記憶に無いのですが、選挙管理委員会が管理している情報の開示をせよ、という事をいったことがありました。
言わんとするところは、実際に今の議員達はどのような層を代表しているのか、という傾向が出せるはずだ、という事。それを元に、逆にどういった層の声が反映されていないのか、が出てくるはずだ、というものです。

政治不信がどうやらこうやら、と言われて久しい訳ですが、一向にそれが止む気配がないのは、単純な話し、今の議員さんという連中は、例えば自分の思う方向を体現していない、という事なわけで。つまりは自分の意見ではなく、どこか他の意見を代表している議員さんが大多数なわけです。

例えば1票の価値の地方格差などと言う話もありましたが、wikiによると衆議院で3倍、参議院で6倍(これも、人口比か、有権者数か、投票者数のいずれを基準とすべきか、という問題もある)が、合憲の範囲内とされているらしい。そんなにあっていいのか?と個人的には思うわけですがね。
個人的な感想でいえば、地方(人口密度の低い)の第一次・第二次産業あたりの有権者層の意思が前面に出て来すぎているような感じがあるのですが、気のせいでしょうかね?

先日、ツインリンクもてぎに行ってきた際に思ったのですが、東京の社会資本の拙さ、酷さに比べ、地方に行くにしたがって道路環境が格段によくなっていくんですよね。

浜松市は先だって大型合併をして、政令都市とやらになったのですが、あんな長野県の県境に近い所まで浜松市にしちゃって大丈夫かい?だって、投票率からして圧倒的に田舎の方が高い訳だし、逆に、中央の若い奴なんかは投票すらしない。てことは予算の大半が北方領土に流れていくような気がするんだけどなあ。つくばエキスプレス沿線のように周りは山しかないから道路は作り放題だし。

税金は所得の再配分っていえば聞えはいいけど、もういい加減、地方の「自分の財布」ってもんを再認識してもらって、自分のとこの上がりだけでやってもらうようにしたほうがいいのではないだろうか?と思うのは暴論でしょうか?
そうすれば、東京都で上がる税金は首都高その他の再整備に十分な予算がつけられるだろうし、地方のばかげた大型開発や大型施設は身の丈に合わない大型支出となり、足かせがつく。
戦後80年くらい経つ訳で、そんな中で今になってまで出来ていない道路やダムは、結局は必然性が薄かったというか優先順位が低かったと言わざるを得ないでしょう?誰のためのものか。誰のためになっているのか。

「権利」の対になる言葉として「義務」があるように、費やした「費用」や「事業」に対しては「効果」が求められるのは当たり前でしょう。労働に対して対価を求めるのは当たり前のことではありますが「適価」であることも重要なのではなかろうか?
非常に長期的な先行投資という分野のものがあることは承知していますが、それにしたって戦前の理化学研究所のように自前の事業を持ちつつ、自分の財布の範囲内でやる、というのが普通の形なんじゃないのかな。と。

なんだかいつものように話があちこち行ってしまったので、唐突に今日はこの辺で終わり。

2008年10月4日土曜日

お金にまつわるエトセトラ

「策士、策におぼれる」なんて言葉がありますが、昨今の金融情勢はまさにこの言葉に尽きるのではないか、と思ったりします。
基本、借りたものは返す。商売で借りたのならきちんと金利をつけ、元本とともに耳を揃えて返済する。ハズであったものが、何故かそうでないことも多い。

金融商品においては、その性格上、必ずしも有利な状態で取引を終える、という事が必ずしも約束されていないことも少なくありません。まあ、お金を元手に何とかしようと思う、という行為自体はギャンブルとなんら変わりないわけです。
お客さんの中には「きちんとリスクを見越した上で、こうした行為に自己資金を投下するのは、理性のある大人としての嗜み」などという方もいるのですが、元来、ギャンブルそのものにまったく関心の無い柴田としては、その手の商品販売に魅力をまったく感じないので、向いていないんでしょう。


保険関係に限った話ではないのでしょうが、それでも何社か保険関係のスカウトというかリクルートのお話を聞いてきた中での話を思い返すと、何かと「夢は?」とか「目標は?」という話に誘導されます。最終的には「いくらの収入を得ようと思うか?」という話に行き着くわけです。
個人的には収入金額に魅力を感じて保険業界に入った訳ではないので、あんまりその手の話には興味を感じないのですが、アリコ時代もそうですし、損保の研修生時代にもそうした誘導手法は常套手段でした。でも、今更ながらに思うのは金融業界って身内への金払いが良すぎないか?てことです。
確かに金融商品の特性として、扱い金額が多ければ多いほど手数料率で手数料が計算されますから、その分収入は多くなるわけです。
クルマ屋時代もそうですが、普段接している金額によって、自分の感覚も麻痺してしまうことが往々にしてあります。トヨペットの扱い車種で言えば、300万円くらいが普通で、アルファード位になると450万くらいの金額が普通に飛び交いますから、100万くらいのクルマなど、これっぱか、位の感覚も出たりするわけで。たかがフロアマットだけで7万円とかね。

それが保険屋になると何千万、何億、という金額もザラにあるわけです。
特に今時のように金利の安い時代になると、300万円を3.5%の実質金利で借りたとしても、5年の貸し出し期間で30万円もつきません。月に直せば約5000円です。という事は仮に一人あたま月に100万円稼がなくてはいけない会社となれば、300万円の200倍。つまり1ヶ月に6億円貸し出していないことには帳尻が合いません。こりゃ大変。
小口に一軒一軒というのは確実な返済にはなるでしょうが、目標金額にはいきません。いきおい、大口を狙うことになるでしょうねえ。ただ、それは、ますます日常の金銭感覚と離れていくことになるでしょうね。


うーん。てことは、やはり異常なほど金利が安すぎる今の状況が問題なんだろうか?自然金利と言う概念があるそうで、普通の状態ならば金利は4%程度あるのが当たり前なんだとか。おそらくその辺だと貸出金利は8%~10%なんでしょうかね?
今とある金融機関の金利情報を見てみましたが普通預金で0.15%。対して貸出金利は条件にも因るだろうけど、3~4%のようです。つまり両者の差は20倍以上。これってどうなんですかね?もうけすぎ?それともこんなもんなのか?


商業経済の発達によって、それまでの農本経済はぼろぼろになってしまいました。つまりは自給自足の原則がくずれ、貨幣がなくては生活できないようになってしまった、という変化がありました。それ以前は、定住・農本経済によって狩猟・採取生活が駆逐されていきました。
果たして金融経済が、これから先、どこまで健闘していくのかはわかりません。
ただ、今のところはまだ商品経済を駆逐して、これからの主流となるには背骨というのか、その基本精神がしっかりしていないような印象を受けます。
逆に「銀行屋如きに何がわかる」と言えるほど、製造業の方々のがんばりに期待したいというのが今の心境です。自分も含めてね。