2010年9月29日水曜日

トヨタの軽

トヨタの軽の話を目にして、少々暗澹としています。ますますトヨタ本体が凋落していく発端となるでしょう。


おそらく軽自動車をダイハツから調達する、というのは販売店対策でしょう。エコカー減税という目玉もなくなり、販売台数が今までの水増し状態から半減するのは目に見えている以上、メーカーも自前の補助金を出し続けるにも限度があります。

となれば、販売店が自主的に自前のメシが稼ぎ出せるように、売れそうなタマを用意しなくてはなりません。

本来ならばリーマンショックを受けて、こうなるであろう事はある程度想定の範囲内の出来事だったはずです。ならば、それに向けてネタをしこたま仕込んだ新車を用意するべきでした。あの頃から。

でも、外に聞こえてくる限りではFT-86とか、LFAとか。で、今回のいかにも急場を凌ぐためだけの軽の取り扱い。

ダメだよ。
トヨタ自身が、自分自身で物を作るという事を全くしてないじゃあないの。自分の手を汚して、自らが油にまみれて製品を作るという動きをしていない。人の上げ前を撥ねるような商売ばかり考えて、自分自身で物を生み出していない。こんな製造業の先が長いはずがありません。
こんな体質に落ちてしまったトヨタを変える為の創業者一族出身の社長であったはずなのに、決断が出来ていない。高所から物を見て軌道修正するのがトップの仕事であるはずなのに、何をやってるんだか。


現場のセールスとしたなら、売りやすい商品に流れるのは火を見るよりも明らかです。随分前から店頭商売しかしていない、お客さんの言うがままの商品を出してくるだけの売り子に、「やはり登録車ですよ」なんて言葉が出てこよう筈がありません。


私の脳裏からは、とある年末に寒い風の吹く中、納車準備をしているクルマが他メーカー製の軽自動車ばかりだったという、とある日産車ディーラーの光景が離れません。


という事は、トヨタ自体の工場稼働率は否が応でも下がり続けるでしょう。売れない商品に経営資源を振り向けるバカは居ません。

という事は、今現状、トヨタは「ハイブリッド」という1本の矢に縋り続け、それと心中するつもりなのか?


で、売れなさそうなクルマは子会社に作らせ、開発も丸投げして、自分は動かず、作らず、銭勘定だけに特化していく。既にこういう流れが主流になってもいますし。



日産扱いの軽自動車を「メイド イン 日産」と思いこんでいる人は少なからず、というより大半のクルマに興味のない人はそう思い込んでいます。まあ、日産の思う壺なんですが。

それを横目に羨望の眼差しで見ているのはメーカーの人間ではなく、おそらく販売店側の人間でしょう。これで、販売店としては当面一息つくことは出来るでしょうけど、

メーカー側に、これらのクルマの魅力を超えるクルマが生み出せない限り、今以上に製造台数自体が落ち込む、ということを想定できているのか非常に疑問です。




易きに流れるのは世の常ではありますが、安易にそれを選択しているようでは先が知れています。更にその先を見たネタの仕込が出来ていればいいのですが、どうなのかなあ?

対等な関係はありえない

どうもここのところ勘違いが多いようで、中韓と日本政府は「対等なお付き合い」が出来ると信じ込んでいるかのような行動をとっています。

私の歪んだ歴史観からすると、いまだかつて中韓と日本との間に対等なお付き合いが成立したことなどありませんでした。結局はどちらか一方だけが甘い汁が吸える時にだけ、見かけ上の友好的な行き来が成立していただけで、どちらか一方が朝貢状態にあっただけです。
立場や利害関係がイーブンになると「わざわざ海を越えて行き来をするほどの事はない」との判断を下し、隣国でありつつも国交は断ってきました。言い方を変えれば、そういう付き合い方が普通で平穏な状態であり、日本にとって海を隔てているということに関しては中国もイギリスなども、その距離はともかく変わりがなかった、というだけでしょう。


さて、今。


中国は自国内での不平等経済体制を原動力にした経済成長と、妙な勘違いが交じり合ってしまい、変な自意識でトチ狂っている熱病患者である以上、今までの歴史の通り日本は一定以上の距離をおく時期に来た、と思います。


中国経済のおかげで、なんて言っている時期は過ぎました。もはや撤退するべき時期です。決断と行動は速やかになされるべきです。

中国観光客や中国市場のおかげで一息ついた、などというのは現状維持や決断の先延ばしでしかありません。速やかに事業の適正規模を模索するべき所に時期を見誤るカンフル剤が入ってしまった、と見るべきです。


もちろん、中国にだって言葉通りの「士大夫」というべき人も少なくないでしょう。ただ、人口が13億いるという事は日本の10倍以上の烏合の衆が蠢いているということでもあるわけです。まあ、手っ取り早く言えば「馬鹿が10倍」という訳です。

で、結局は数が物をいう訳です。幾ら正確なことを言う人が居たとしても数は圧倒的少数なわけですから、彼らは影を潜めざるをえません。孔子にしたって、日の目を見た時代はごく短期間であり、大半は流浪の生活を余儀なくされていたわけですし。



まあ御託はともかく、日本も材料は腐るほどあるし技術だってあるだろうから、さっさと核兵器を常備して、アメリカと一緒に「海底油田開発でもしようよ」と言って。で、子供手当てなんぞさっさと止めて、国営の油田開発に全額投入する。もちろん中国・韓国は無視する。奴らが来ると手抜き工事でメキシコ湾の海底油田の二の舞になるし。


で、嘉手納の住民は住民のほうを強制疎開させる。

悪いけど、先に出来たのは基地のほうで、基地周辺に行けば喰えると思って、後から住民が増えていったというのが現実でしょう。滑走路のすぐそばに学校作って「おいおい大丈夫か?」って思っているのは寧ろ基地側の人間じゃあなかったの?って思うんですけどねえ。後から来て「基地が退け」というのは虫が良すぎると思うんだけど。

2010年9月27日月曜日

うちの犬が弾かれた

先ほど、犬の夜の散歩から帰ってきました。

いつもならそれだけなの事なのですが、いつもと違うのは、今日は一匹を抱きかかえて帰って来たことです。

いつもの散歩コースで、いつもの場所で犬がウンコをして。で、小学校手前の直線道路。向こうから車が来ているらしいヘッドライトの灯りが近づいてきているのは気がついていたので、私は柴とチワワの2匹の散歩紐を引き絞り、道路に出ないように押さえつけていました。

引っ張る方向からして力が入り易いこともあり、私は道路中央側に背を向けて犬の紐を引っ張っていました。随分車の近づくのが遅い感じはしましたが、まあ仕方ない、ここは待っているほかありません。


で、接近。やっと通り過ぎるか、と思ったその瞬間コツンと音がして次の瞬間チワワが泣き叫び始めました。


「轢かれた!?」


こちらは道路右側の端に佇み、私は道路中央に背を向けてじっと待っていたということもあり、ほとんど気が付きませんでしたが、どうも随分近くをその軽トラックは通り過ぎていた様です。「なんかやけに近いなあ」位の感じはありましたけど。


泣き叫び、逃げようと後ずさりするチワワに咬みつかれながらも抱き上げ、頭から足の先まで撫で回しましたが外傷はないようです。骨折でもしていればいつまでも痛いと泣き叫ぶはずですが、手足の曲がり具合におかしな感じもなく、抱かれている分にはおとなしくなってきました。



件の軽トラックは10mほど先で停車し、助手席から1人が降りてきました。案の定ババアです。言葉が汚いのはお許しください。


「どうしたの?大丈夫だった?」


何処の口でそういっているのか分かりませんが、よくそんな口が聞けたものです。もちろん私の口から出てきた第一声は


「何処に眼をつけて運転してやがる」


です。街灯からそれほど離れてもいない(夜間とはいえ視認はしやすいはず)、道路の右側に暫く佇んで、じっと待っていただけ(もちろん動いているはずもない)の私に非があろう筈がありません。もっとも「クルマ対立ち止まっている歩行者(しかも進行方向に対して右端に)」という図式で自分の正当性を主張できる神経の方が信じられませんが。

ところが相手は、その神経を疑う自己主張をし始めた訳です。曰く「そんなところに立っていられてはわからない(街灯のすぐそこで?)」「あんたが左側を歩いているから(私は進行方向に対して右端に立っていただけ)」

無論、私にとって一歩も引く筈の道理はありません。そのうち運転手も出てきました。もちろんジジイです。

思い返せばここで相手のクルマに近寄り、車のキーを抜いてクルマを動けなくしておけばよかったのですが、事の顛末に動転していたのは傍にいた嫁さん以上に、弾かれた当のチワワ以上に、もう一匹の私に連れられていた柴犬の方だったようです。
相棒の鳴き声もそうだったのでしょうが、私の相手に対する剣幕にビビッてしまっていたようで、グイグイと後退しようとし、遂に首輪が抜けてしまいました。チラッとそちらの方向を見ると、次の車が近づいているらしい光軸も見えます。

仕方なしに柴犬を追いかけ、ジャーキーでおびき寄せて身柄を確保した時にハタと気が付いたら既に下手人は逃亡してしまった後でした。あーあ。



ひょっとするとあのジジイ飲んでたんじゃあないのか?という気もしますが、すでに追跡の手段はありません。何となく見覚えのある顔立ちのような気もするにはするんですが。


今回は犬の外傷もなく、すみましたが。でも頭を振られている可能性もなくはありませんから、明日の朝まで様子見ですねえ。


ただ、もう少し私の立ち位置が道路中央寄りであったとしたら、弾かれていたのは犬だけではすまなかった可能性も無きにしも非ずです。その時は何も分からずいきなり畑に弾き飛ばされていたかもしれません。痛かったろうなあ。そんときゃあ。まあ痛かったで済めばまだマシなんですが。



やっぱ、高齢者の運転という事についてはもう少し突っ込んだ議論をしておくべきでしょうねえ。

結局罰金の高額化によって飲酒運転に因る事故が半減しているのも事実でしょう。
という事で、ここは1つ、高齢運転者マークをつけたクルマを保護することばかりではなく、逆に深夜と言える時間帯の運転などは「自覚に欠ける行為の1つ」として事故の際の修正要素に加えてもいいんじゃあないか?とさえ思います。
何度か書いていますけど、「弱者に立たされる立場の人を保護するべき」という理念は理解できることなのですが、保護されるべき事自体は振りかざされることではありません。譲歩に対する感謝の念は一対であるべきと考えます。この関係が崩れれば、それはそのまま健常者に対する弱者の暴力でしょう。弱者であること自体は権力・権利に繋がる物でもなんでもないのですから。

2010年9月24日金曜日

大津事件を思い出せ

ちょっと時間がないので手短に。

例の尖閣諸島での衝突中国人船長を釈放するという記事を目にしました。何でも沖縄地検が「日中関係に配慮して」そうするんだというお話だと受け取ったんですが。記事の読み違い出なければ。


バカだなあ。地検ってば司法の側の人間だろう。あんたは行政の側の人間なのか?何時からそんなことを判断する立場になったんだ?




この瞬間思い出したのが、明治時代の大津事件です。

当時訪日中のロシア皇太子ニコライ2世(だったかな?)に切りつけた津田巡査(だったと思う)の事件。当時、あの時の司法判断を世界各国は絶賛したはずです。それこそが司法の独立だ、という訳です。
きちんと司法の独立性が保たれている、未開の野蛮国などではない、きちんと近代国家の体をなしている国である、と評価された。。

これよって日本の面目を立てた面も少なくなかったはずです。



その子孫達が今回出した答えがこれです。





情けないったらありゃしない。






一体どうしちゃったのこの国は。


それより何よりここは引くべき所じゃあないだろうに。

これで世界第3位の経済力を持つ独立国家だってんだからブラックジョークにも程があります。

2010年9月20日月曜日

クルマは何と面白く、奥深い物なのか

その昔、私の行動の原動力はいうまでもなく足でした。それが幼稚園(小学校低学年?)の頃になってコロ(補助輪)付の自転車が戦力に加わり格段に機動力が増しました。
私の住む地域では中学校は自転車通学がデフォルトでしたので、小学校6年生の冬には中学校用の通学自転車を買って貰えるという大イベントが控えていました。それを期に一気に私の行動範囲は広がることになります。
もっとも校則の縛りは当然ありますので、自転車による行動範囲は中学校の校区内に限られていましたけど。

そうした長く苦しい雌伏の時を経て、一気にサルから人間へと進化を遂げたのが自動車の運転免許証を取得した時です。そう。遂に人力の時代から内燃機関という動力をわが手中にすることが出来るお墨付きを手にすることが出来た訳です。


私が高校生のみぎり。

私より先にエンジンという動力付の乗り物を運転する資格を得た兄貴は、悔しくも私より先に行動の自由の象徴たるバイクを手にしました。
タミヤの1/12ポルシェ934ターボのプラモデルを親に買って貰って、机で作っているのを指を咥えて見ているしかなかった小学生の時。また、その934ターボのボディを使った、タミヤ初の電動ラジコンカーをまたしても親に買って貰い、またしてもそれを指を咥えてみているしかなかったあの頃。2度あることは3度あるとの言葉通り、兄貴はまたしても私に先じてバイクを手中にしたのです。まあ、それは良いとして。

自由に行動できることは喜びです。当時大学生になっていた兄貴が原付バイクを新車で買い、それに乗って下宿先に帰っていく後姿を、羨ましさと悔しさの眼差しでずっと見送っていたことは今でも忘れられません。とは言いつつも随分古ぼけた思い出になってしまいましたが。



数年後、いつしかそのバイクは家に残され、私の足となりました。まあ、兄貴のおさがりを着続けてきた私にとっては、期せずして転がり込んできたそのバイクに疑いを感じることなどあるはずがありません。

あちこち行きましたねえ。日帰りで行ける範囲は。もっとも静岡まで行くくらいがせいぜいでしたけど。西は伊良湖位まででしたかねえ。楽しかったから良いけど。

初めて乗ったクルマはもちろん教習所の教習車でしたが、免許を取ってはじめて運転したクルマは母親の乗っていたミツビシの軽トラックです。

長年、まともに上まで回していないエンジンだったこともあるでしょうけど、あれはあれで楽しかったですねえ。初めて1人で浜名バイパスをその軽トラックで乗り、壊れるかと思うほどエンジンは唸っているのにぜんぜん加速していかなかったりとか。
とある細い道に入ったら、崖崩れで道がなくなっていて。引き返そうにも後が空荷のため、ぜんぜんリアタイヤに荷重が掛かんなくってズリズリと崖に向って車は落ちていき、どうしようかと冷や汗掻いて。でも運よくその時は2人だったので、1人を荷台の後ろ端に乗らせて、一番トルクのあるリバースギアのまま何とか脱出したっけかなあ。


トヨペットのセールスの頃。今でも憶えている生年月日が大正の生まれの印鑑証明を貰って登録したクルマがありました。

何年か後。「もうおじいさんに乗らせるのは危ないから」という事で、クルマを辞める事にしたおじいちゃん。辛そうでしたねえ。「男の子として、自由に動けるおもちゃを已む無く手放すのは断腸の思いだと思いますから、何とかなりませんか?」と私がおばあちゃんに頼み込んでみましたが、それでも「息子も止めろというから」という事で結局は免許も返納することに。
おじいちゃんからは「どうせなら柴田さん、個人的に引き取ってもらえないか?」という事でその車を一時的に引き取る、なんて事もありましたねえ。






クルマを所有すること、クルマを運転することは疑いもなく楽しいことであり、喜びでもあります。

どうも寄ってたかってクルマをつまらなくも所有することを苦痛にしようとでもするかの如き、バカヤロウな政策を採っている国もあるようですが、愚策としか言いようがありません。まったくのミスリードです。
ただ、単に数のみの増殖は二酸化炭素を始めとする廃棄物の大量生産と、地球環境の悪化に寄与するだけでしかありません。如何にクリーンに、エコに、という流れは中国やインドを始めとする車の大量増殖中の地域を考えるまでもなく避けることの出来ない流れです。

でもそれは、あくまでも今までと同じく、これからも自動車という行動の自由・操作するということの楽しさ・所有出来る、という事に対する満足感などなど、諸々の楽しさを与えてくれる機械を、これからも楽しめる・愉しむための、という前提条件を満たす物であることが必須であることは言うまでもありません。




別にそれはエンジン付でなくともいいのです。根源は行動できる自由なのですから。




もちろん、ただ動けばいい、という感覚の方もいらっしゃることは承知しています。でも口ではそう言っていても、実際にクルマが公共インフラの一部となり、時間借りの物として提供されるようになった時にも同じ事を言うのかなあ?という疑問はあります。それでも赤色じゃあなくって青色にしてくれ位は言われるかもしれません。



で、そういうことを思うと、さすが白人どもは上手いこと獣性の塊を内に秘めた方々が多いですから(別に人面獣心とか、そういうことを言いたい訳ではありません)、そうした欲望の掻き立てかたが上手いというか、心得ているというか。さすがやのお、というか。見方を変えると、製品としてのバランスが上手い具合に破綻している、という言い方もあるかなあ。よく壊れるし。




さあ、今度は何を買おうかなあ。

2010年9月14日火曜日

ハイパワーとスポーツカーとエコ

以前からツラツラと考えていたことに、ハイパワー車とエコというのは両立しないことなのか?というものがあります。
確かにやみくもにハイパワーを追い求めるのは余りエコじゃあないでしょうし、燃費だって悪すぎます。基本的にエコカ否かは排気ガスの成分がどうのこうのというよりは燃費が良いか・悪いかでしか判断できないんですけど。別に個人で排気ガス検査機器を持っているわけじゃあないので。

ただ、ハイパワーを追い求めるのならば「キレイな燃焼」を追うのが筋のようにも思われますし、それがイコール「エネルギー効率が一番いい」という事とはリンクしないんでしょうかね?それがまた、エネルギーロスの少ない機器構成でもあるのでは?とも思うのですが。


という事は、きちんとハイパワーが実現できているクルマこそがありうべきクルマの動力機関を備え、またそれはきちんとスポーツできるクルマでもある、という事とはリンクしていかないのかなあ?とも思うのです。




でも、大概の所謂「スポーツカー」は燃費が悪い。



これを技術の未成熟ととるのか、それとも、そういいう物なんだ、と受けとるべきなのか。




エンジンとしてはもちろん、燃費を良くする為には「アクセル一定開度で、低負荷状態での一定速走行」が一番です。日本車の場合はクルマ全体を挙げて、この状態に持っていこうとしているように感じます。CVT然り、直噴然り、ハイブリッド然り。

ハイブリッドでは停止状態からの出発時はアクセルの開きを無視してますし、CVTは極端な話、アクセル一定開度のまま60km/hまで変速しようとするシステムだし、直噴は定速走行時の成層燃焼を成立させるためのシステムだったわけだし。

こうした経緯を経て出来上がったクルマ達は果たしてスポーツカーと言えるか?と考えれば、考えるまでもなく「NO」と言いたい。

以前スポーツカーとは?なんてえらそうなことを書いてしまいましたが、その時の主張はともかく、運転して楽しいクルマをスポーツカーとするという単純な定義からしたら、所謂エコカーと呼ばれているらしいシステムを組み込んだクルマは「ぜんぜん楽しくない」。


ここはやはり、高効率を本旨とし、またそれをダイレクトに運転者に伝え、アクセルを積極制御させることによって更に無駄な燃料消費を結果的に抑えさせることで総合的なエネルギー効率の向上を達成する、という方法論のほうがよりクルマのあるべき姿と映ります。

でまた、アクセルを積極制御させる基本姿勢はそれこそスポーツカーでしょう?

GT-Rのエンジンは460馬力でも理想空燃比状態で行く、とかいう話ではありましたが、でもガスは食うわけでしょう?しかも結構な量を。もういいよ、そういうコンセプトのクルマは。




既に感覚が追いつかない領域にまで現代の車は足を踏み入れている以上、既にこれ以上のスピードは無意味です。それよりも、「モアトルク」を何処から発生させられるか、でしょう。しかもそれをより少ない量の燃料で達成する。

日本車の場合は往々にして、そこから先に人間の操作を介在させない方向で設計しちゃう傾向があるんですよねえ。



操作するから面白い
んですよ。だからギアチェンジ位させろよ、って思います。




プリウスの動力分割機構の仕組みをはじめて知った時は「すげー」って素直に感心しました。「ああ、これでやっちゃえるんだ。やっちゃうんだ。」というね。


さすがプロの考えることは違うぜ
、っていう奴をもう一度見せて欲しいなあ。

そうして、「ハイパワー(体感上の)」「スポーツ(積極的に操作に介入できるという意味の)」「エコ(燃費がいい)」というトライアングルを絶妙に成立させて欲しいです。