2009年7月21日火曜日
おたく
今時のオタクといえば、アキバに萌えにロリコンに、といった感じの根暗なアニメオタクというイメージが通り相場かと思います。
ただ、小学校の頃にスターウォーズの洗礼を受け、ヤマトを見、ガンダムの初回放映を目の当たりにし、もっと幼少の頃にはウルトラQは生まれが間に合わなかったにせよウルトラセブンの頃には物心がつき始め、小学校にあがり始めた頃にゴレンジャーが始まり、その少々前に仮面ライダーの初代がテレビ画面を駆け抜け、ライダースナックなんかも大流行、人造人間キカイダーなんかも放映されていたりと、あの頃少年少女を過ごしたお子様たちは多かれ少なかれ、その後、立派なオタクになるべくその根っこを植えつけられたといっても過言ではないのではないか?と思ったりもします。無論柴田もその1人だったりするのですが。
ただ、中森明夫の名づけたといわれる「オタク」ですが、その命名前後の時期の語感と今の自称オタク達とは些かその方向性のニュアンスが異なるような気もしています。
冒頭掲げたように、今のオタクに対する印象としては「ロリ」であったり「萌え」などといった単語に非常に敏感な、幼女趣味傾向の非常に強い「単に根暗なスケベ共」といった感があります。たしかに中には、そういった方向の造形物を中心とした、特にフィギュア関係に顕著な、3次元の造形物として見ても非常に先鋭的なモノを作り出す「作家」と呼んでも差し支えないレベルにあると思われる人たちも存在します。(ちなみに村上隆に関して、個人的にはプロデューサーではあってもアーティストといわれると違和感を感じます)
また、彼ら造形物製作者にとっては中世の貴族に召抱えられた画家と同様、食っていく為には金ズル(パトロンともいう)を必要としますから、自らの趣味や属性も手伝うでしょうけど、パトロン達の好みそうな対象物に手を染める、という事も理解できることとはいえます。例としては「裸のマハ」とかね。
当初のオタクたちといえば、もちろんその絶対数の少なさともあいまって、非常に濃いというか先鋭的な存在であることに妙に意識的なところがあったな感じがします。この変の空気と言うか時代的な感じはオタキング「岡田斗司夫」氏の著書である「オタク学入門」なんかをお読みいただけると大変ありがたいところです。
じゃあ柴田は?と言われると、少々時代に乗り遅れたというか、生まれるのがもう少し早ければ、なんていうと伊達政宗みたいでいい感じですけど、地方都市浜松に生まれ、ホビージャパンとかを読みこなしつつ、オタク達の周辺情報の収集には余念がなかったのですが、いかんせん経済力もなければ、工作力・造形力もなく、それをカバーしうる行動力もなかった、という所ですかね。
でも、オタキング岡田氏が当時主催していたゼネラルプロダクツの会員であったり、一時食玩で一世風靡した海洋堂の名もすでに小学校高学年の頃には知ってはいました。今はビックイベントになってしまいました毎年2回開催されているワンダーフェスティバルですが、その開催当初5~6回目くらいの時期に、浜松町にある貿易センタービルで開催していた頃に顔を出したこともありました。大学行っていた頃ですね。
また、今日びはオタクの町といわれるらしい秋葉原も、学生当時は電気屋の店員としての「勤め先」でもあった事もあり、何気に非常に複雑な気持ちでもあります。まあ、たしかに三省堂の書泉グランデとかもあったりはしましたが、メイド喫茶やらアニメショップが、とか言われると、なんだかなーと。オタクって何気に理系気質の強い所はありましたから、電気屋街、コンピューターショップの立ち並ぶ町というところで似たもの同士の安住の地という感覚はあったのかもしれませんけどね。
そういった時代を過ごし、立ち位置であった人間からすると、ここ数年の所謂「オタク」たちと言うのは下心丸出し過ぎるというか臆面も無いというか、見ていて赤面しちゃうようなことでも臆面も無さすぎるような気がしてなりません。言葉を変えると獣性丸出し、という感じですね。
PS2登場後しばらくしてからコンピューターゲームが売れない、と随分と話題になりました。曰く「インベーダーゲームにはじまり、ファミコンの洗礼を受け、ブームを支え続けた第一次コンピューターゲーム世代が30歳を超え始め、年代的にゲームにお金を使えなくなってきた」なんていう評論も目にしました。でも、それってそのまま俺らの世代じゃん、とか思いましたが、同時にそれらの世代がオタクの先頭を切って走っていた、とも言えるのかなあ。それが知らないうちに今の世代を引き連れてきて今のような状態ともなっていることを思うとなんだか悲しくもなるねえ。
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