2009年1月12日月曜日

空回り

最近、コロパパさんのブログにコメントを書き込めなくなっているので直接感想を書き込めないのが残念なのですが、ここのところのキーワードは「空回り」なのかな、と。

おそらく戦後6千万程度の人口であれば、今の体制でもなんとなくやっていけたのであろう、と思うのですが、現在は1億3千万弱の人口のようです。つまり倍以上になっているわけで。
結論を先に書いちゃうと、明治維新以降なんとなく成立してきたであろう現体制は、規模やその深度などに既に対応しきれていないのでは?ということです。しかも切り盛りすべき立法府・行政府が既に住民から見放されているのではないのか?と思うほどの支持率の低さ。
右肩上がりできた戦後40年ほどまでは「今が良ければ良いや」とか植木ひとしの「サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ」を地で行く有様で、「まあ、いいや」であったものが、ひとたび悪くなると、その無能さや実行力のなさ、責任感のなさ、決断力のなさ等諸々の負の局面の露呈となってしまっているのかな、と。


ではどうすれば、という事になるのですが、結局は「現場の事は現場の人間にしか分からない」という事なのかなあ。つまりは役所の何々課という役の人よりは、現地のというか実際の住民に判断をゆだねる、ということもしていた方がよくないかい?と思うことが往々にしてあるわけで。ただ、役所の人間はその立場を生かした「ジャッジメント」に特化した方が良いのでは?と思うのです。
民間会社でもそうでしょうが、上役の重要な役割は「下っ端では分からない・見えない局面を想定した上での方向付けという面を含んだ決断・判断とそれに伴う裁量」だと思うのですが。
この権限を任されるからこそ、下っ端と同じレベルの仕事はしていられないし、判断の元となる情報は常に入れていなければいけないし。現場の状況がわかる・常に事業の方向性との整合性を図る、もしくは事業の方向性の着地点を探る、というのが上役の業務でしょう?で、これが上役達の給料の原資なわけで。

ただ、景気がいいときには「何もやらない」というが結果的によかったり、仕事の1つと看做されてしまたりすることもあるわけで。



医療費ということだと、実際の所、年金がそのまま介護費に流用、という事になっている人も少なからずいます。また年金イコール浜松オートへの移動タクシー料金と博打(パチンコなども含む)の原資という事も往々にしてあるようです。
そういうことを見ていると、年金という制度そのものが「これで良いのか?」とも思います。つまりは「飼い殺しほど人間を腐らせるものはないのかな?」という疑問もあるのです。小さな幸せと言えば聞えはいいのですが、「それが博打かよ?」とか、年金制度が基本的には賦課制度なんだから、いくら働いていたからといってあなたが貯めていたお金ではないという事や、年金の負担はこちら側が負うことになるんだよね?とか。
確かに以前「40年も律儀に働いてきた」人が、老後というか第二の人生をゆとりをもって暮らすという事に対して夢を抱いてはいけないのか?というきついお言葉をいただいたこともあります。もちろん自分がその時になったとき、今の自分と同じ言葉が吐けるのかな、という事も念頭にはあるのですが。

どうせなら、もっと自己責任という部分を考えた方がいいのでは?とも思ったり。


ただ、それらはさておき、公務員というか、行政に関わる方々に対して。
既に住民の期待に答えうる団体になりきれていないような気がします。つまり、自身の給料の原資を集めるだけの期待に応え切れていないというか、住民が給料を払いたくない団体に成り下がっていると言うか。つまりは株主に「NO」を突きつけられている、という自覚はないんだろうなあ。自分は一生懸命仕事をしているという自己満足なだけで。
団体交渉権がないから、とは言いつつ公務員組合はあるわけですし、実質圧力団体にはしっかりなっているわけで。

もう一度原点というかねえ。「私らの生活が」という場面もよくテレビなんかで報道されていますが、それなら生活レベルを落とせば良いじゃんとか、おもっちゃうわけで。自身が「プチ小室哲也」状態という事がわかっているのかなあ。自身の現状の生活が大事なだけでしょ?とかね。内需拡大が、とは言いつつ日本人って溜め込むのが好きだからねえ。
政治家からすれば、例えば前回の浜松市長選とかも大差で康友君が勝った、というわけではありませんから公務員票がかなり重要になってくるというのは分かるんですがね。ただ、公務員の生活第一では実際の納税者が枯れてしまうわけで。
ならば「日曜の・しかも日中」しか投票時間がない(つまりはそういう勤務体系の人しか投票できない)投票時間を「ネット投票でも良いよ」という事にしてみたり、いっその事「公務員は、在職中は投票権が停止される」なんていう措置を考えたこともあるんですが。


そんなことをウツラウツラと思ってしまう休日の午後なのでした。

1 件のコメント:

コロパパ さんのコメント...

高齢者(年金受給対象者)にどの程度の生活を保障するかということは難しい問題ですね。
国民年金と厚生年金や共済年金とでは、かなり受給額が違ってきますよね。国民年金だけだと博打をする余裕はないように思いますが・・・。扶養者がいれば別ですけど(年金=小遣いのような人)
働かない年寄りの社会的価値(これは禁句かも)は誰も同じだから、年金額は皆同じで良いとの発想で行けば、厚生年金の所得額比例分は問題がないとは言えませんね。
しかし、働いている間支払う厚生年金保険料は所得に比例しますので、高所得者にしてみれば、高い保険料を払ったのに低所得者と支給額が同じでは納得いかないでしょう。
本来は、自分の将来は自分で責任持てばよいのでしょうが、何歳まで生きるか分からないし、30年〜40年後の将来、蓄えが今と同じ価値を維持しているかも不透明です。扶養者のいるいないでも変わってきますよね。
高齢者の雇用が創出できなければ年金は必要ですし(支給額は個人の状況によって見直さなければいけないかもしれませんが)、病気や老化で働けなくなったら死ね、というのでは「姥捨て山」の時代に逆戻りで、文明国家としての体をなさなくなります。
働けるうちは何歳までも働くことが理想でしょうね。国営農業会社でも作ってもらって、会社を退職したら皆で農業でもしましょう。休耕地はいっぱいある訳ですし。