2009年6月29日月曜日

ボディーコーティング

ボディーコーティングのお問い合わせがありました。
何でも某「超後退」で施工しているガラスコーティングが一番良いというふうに書いてあるが、どんなものか?というお問い合わせでした。個人的にも何度かコーティングと称するものを自身のクルマに施工してもらったこともありますし、現在は表面の磨きは自分でこなしていますので、ある程度は知っているつもりですが。ただ、特定店でやっているコーティングが.....、と言われてもその施工例を知らないし、自身で試した訳でも無いので「まあ、こういう性質のものですよ」以上のことは言えないのですが。


結論から言うと最近の生産車であれば、正直コーティングの類いは必要無いのではないか、と思っています。自分の基本スタンスは「本当にクルマにとっていい事なのか?」というものですが、塗装膜が、殊ここまで強靭になってきている以上、その塗装膜にとって良いものとも悪いものとも判然としないものを被せるよりは、塗装膜にとっては何もしないほうが良いのではないか?という気はしています。

基本的に自動車の塗装は言われるほど弱くはありません。ここのところのクルマはソリッド色であろうがメタリック色であろうが基本的にクリアー層を上塗りしてくるようになってきています。そしてそのクリアー層には当然のようにUVカット成分が含まれています。
このため、以前のような退色は飛躍的に少なくなってきました。それでも劣化しているクルマはあると言われそうですが、それは手をかけすぎた(磨きすぎ・洗いすぎ等)車であったりヘタな補修をされたクルマであったり。その他には色の顔料そのものが元々弱い、退色しやすい、という根本の原因だったりすることがほとんどです。それ以外にもともと塗装自体に工数を掛けていないらしい車もある、なんてこともあるようですけどね。

センチュリーのように5回塗り(ファイブコート・ファイブベーク)の車などは途中の中塗り工程時にいちいち手作業による塗装面の磨き(耐水ペーパーによる)工程が入りますから、いくらライン塗装とはいえその仕上りは柚子肌も分からないくらいにつるつるのピカピカでしょうが、普通のクルマは2コート2ベーク(2回塗って2回焼く、下塗り1回の仕上塗装1回)、もしくは3コート2ベーク(2回+クリアー層を塗って2回焼く)と言った程度ですから、よーく見れば塗装面にはうっすらと柚子の実の表面のように凸凹があります。
綺麗な塗装面を実現する為には表面を平滑にして光の反射を均一・一定にすればいいのは御存知のとおりです。クリアー層を載せるだけでも表面の凹凸に透明な樹脂層が入りますからより綺麗に見えます。

コーティング作業では普通、以下の工程を踏みます。まず水洗い→ピッチ・タール、鉄粉取り→コンパウンド研磨→1回目の施工→研磨→仕上げの施工→最終仕上げ研磨と言った感じです。つまりは汚れを取るという作業以外は基本的に表面の平滑度を上げる作業といっても良いかもしれません。
ガラスコーティングでは液剤が主剤と硬化剤に分かれており、この2つを混ぜ合わせてから表面に塗る
といった作業になります。まあ、言ってみればウレタン塗装のクリアーを手塗りで塗りこんでいるようなものなのでしょう。一度混ぜちゃうと一瓶全部固まっちゃうということですしね。このためガラスコーティングの場合はよほどの請求金額のものでも無い限り2回目の仕上げ施工の工程は無いでしょう。多分。

ピカピカに磨き上げ、柚子肌を薄くした表面にポリマー(高分子状態の膜)を塗ったり、高度のあるクリアー層を被せたりするわけです。
なかには100%石英ガラスをボディ表面に生成させるなんて謳い文句のコーティングもあるようですが、ホンマかいな?常温で、水分と空気により硬化反応して純粋な二酸化シリコン(ガラス)の膜を生成するやらなんたら、とか書いてありましたがガラスってそんなに簡単に出来るんけ?化学の先生に聞いてみよって感じですね。
まあそれはともかく、磨いた表面の上に透明度の高い物質を載せる訳ですから施工直後はそりゃあ綺麗に見えるようになるでしょう。

ただ、某ディーラーでもやっていた「CPC・○イント○ーラント」の謳い文句のような5年もつなんてコーティングはいまだにお目にかかったことはありません。無理です。メーカーの塗装膜は5年以上は平気で持ちますけど、それに匹敵する強度を持つコーティングはおそらく今のところ無いでしょう。
それでもコーティングをして、その初期性能(水ハジキや見栄え)を維持したいのならば、やはり1年に1度の再施工をし、なるべく塗装表面には触らず(そうすれば磨き傷はつかない)、普段は埃を払う程度に止めておく、という位が一番良いのでしょうねえ。

2009年6月27日土曜日

静岡空港

馬鹿な事したもんだ、と思う。もちろん静岡空港の事です。
キチンと採算を重視するのなら、なぜ真っ先に声を上げた静岡商工会議所の会頭かなんかをやっていた川合君のところに空港運営をさせればよかったじゃん。きちんと旗振り頭をしていた人に責任を持たせればいいんですよ。
川合君って誰?と思う人もいるでしょう。某静岡鉄道の会長ですね。静岡トヨペットの筆頭株主なんていう人でもありますが。柴田が静岡トヨペット在籍時に見せ金としての「空港建設賛成署名」を全社員に強制させた人でもあります。

もうね。やっぱり浜松だけ「浜松県」として再独立するべきですよ。だって静岡に用はないもん。別にあいつら居なくてもあんまり影響ないし。トヨペットにいたときもそんな雰囲気が濃厚だったけど、「東部・中部」と「西部地区」なんだよね、静岡県って。商圏としても意識としてもそう。川向こうとこっち側。まあ西部地区内でも「天竜川以西」と「天竜川以東」という意識はありますが、それ以上に大井川以西と大井川以東という感覚はある。

元々太平洋ベルト地帯にどっぷり浸かった地域ですから交通機関や交通路の整備は必要な分は既に昔から整備されていたわけです。やるなら新規路線の追加ではなく、従来の路線の容量を交通量の増加に併せて2車線から3車線に増やすかどうかってなものでしょう?
「のぞみ」が通過しようが停車しようが、別に東京まで「こだま」で2時間程度で行けるわけですから、それはそれで不都合はないでしょう。それよりかリニヤではないですが変に停車駅を増やされるほうがよっぽど迷惑です。掛川とかね。乗り換えりゃあいいじゃん。

しかし笑ったのは空港管理担当者の弁。「福岡に観光振興してもらえれば........」っておい。
明治時代に「士族の商法」と呼ばれた、版籍奉還の際に国から支給された最後の給料を元手にした商売の横行がありました。まあ大方が失敗して没落士族となった訳ですが、この昭和晩年期から平成の今に至る「公務員の商売」も上記と同様の大失敗の例として教科書に載せるんですよね?文部科学省のお役人方?
しかし、金勘定のできない・金のやりとりをしたことのない人間に経理を任せるという仕組みの愚をいつまで繰り返すつもりなんでしょうかね。

2009年6月24日水曜日


 最近本屋さんに行くとなんとなく辞書のコーナーに行って英和辞典どうしようとか、参考書のコーナーに行って数Ⅰのチャート式でも買おうかどうしようか、とかついつい悩んでいます。買って本当に家で開くかもわかんないのに。
中学校の頃まではなんとなく授業にもついていけていたつもりなのですが、塾に行かなかったせいか、ただ単に遊びすぎていただけなのか、高校の時はずいぶんと置いてきぼりにされた感が強く、今でもなんとなく気がかりなことのひとつです。
大学も出てはいるのですが本音の所では「本当に高校を卒業しましました」なんて言ってもいいのかなあ、という後ろめたい気持ちもあったりなかったり。
高校に入ったときに担任の先生に「もうこれからは義務教育じゃないから、やるもやらないも本人次第」といわれたことは憶えています。たしかに中学の時の様に覆いかぶさるように「教えてやる」といった姿勢や気負いを先生方から感じることはありませんでした。それよりも印象に残っているのは数1のときの数学の先生の態度です。はっきりと口にも出していましたが「お前らにこれが分かるか?わかんねえだろうなあ」と言われカチンときたものです。まあ、解んなかったんですが。それでも、もう少し理解しやすいであろう物言いもあるだろう、とは思ったのですが。


さて今日はブレーキの位置について。
ブレーキキャリパーそのものはけっこうな重量物です。特にディスクブレーキなどではピストンの動きにキャリパーの剛性が負けていてはローターをはさむ力がまともに掛かりませんから、けっこうごつい作りになっているものがほとんどです。最近はピストンが1対式のものばかりか2対、果ては3対式のものまである始末です。で、それを何処に配置するかという事なんですが。

重量配分を考えると重いものは重心位置に近く、しかも低い位置に置きたい、というのが人情になるはずです。つまり前輪のブレーキキャリパーは後ろ側に、後輪のキャリパーは前側に、という事です。また素人考えだとブレーキキャリパーが前側に位置していた方が(特に前輪側)ブレーキを冷やすのに有利ではないか、と考えてしまいます。つまりフロント側からの導風ダクトの配置が楽そう、という事です。ということで、ブレーキに負担がかかりやすい(重量物が前側に集中するので)FF車やスポーツカーはフロント側にブレーキを配置する、という事になりそうです。それ以外の重量車は少しでも重量配分を考えて後ろ側に設置する傾向が..........、と言いたい所ですが。

基本的に足回り、タイヤ周りにはサスペンションやドライブシャフト等の重要部品がひしめいています。まずはサスペンションの軸をどういう風に配置するのか。エンジンからの出力軸が何処に位置するのか、タイヤの舵角を決めるステアリングシャフトが何処に位置してどういう風にアームが伸びてくるかなどです。あとは、採用するブレーキの元々の設計によって、という事もあるようです。
このため実際の所のブレーキ配置はその空きスペースに位置する事になる、というパターンがほとんどのようです。前記した部品たちを押しのけてまでブレーキ位置を優先するほどそのレイアウトに関しては重要性が認められていないという事ですね。
フロントブレーキの配置に一番関わってくるのはステアリングシャフトの軸が何処にレイアウトされているか、という事のようです。ポピュラーな位置はエンジンルームの一番下の後方というか奥まった所。で、ここから伸びたシャフトは位置的にいって当然ホイール軸の後ろ側に接続されるパターンが多いですから、ブレーキ君はその居所が前側になる、という事のようです。
ブレーキの冷却性じゃあないのか、と言われそうですが、冷却性に関してはキャリパーそのものよりもローターの放熱の方が重要なようです。まあ、レースなんかだと真っ赤になりますしねえ。
ブレーキダクトがフロントバンパーに開けてあるクルマもありますし、導風板のあるクルマもありますが、タイヤハウス内の空気はローターの遠心力で中心から外側に巻いている状態のようです。このためブレーキキャリパーが前にあろうが後ろにあろうが冷却性能にたいした差はない、という事らしいです。

フロントエンジンリアドライブ(FR)車の場合、ミッションが縦置きになりますし、ドライブシャフトの取り回しも無いのでステアリングシャフトの位置が比較的前に来る場合があるようです。このためブレーキキャリパーは比較的後ろ側に来る例が多いようです。この辺は車輌固有の設計レイアウト要件による、という事ですね。
ステージアやスカイラインは前側、という事もあるようですが、あれらは4WDの設定もあるクルマですので、それらを見越して全グレードのステアリングシャフトの軸が後方にレイアウトに統一されているのかもしれません。確認はしていませんが。ちなみにR35GT-Rは前ですね。

2009年6月19日金曜日

えこ3

継続使用の可能な、しかも減らないエネルギー源としての太陽光発電ですが、ちょっと気になって発電パネル設置における補助金を調べてみました。これだけではないのかもしれませんが、最初にヒットしたものは1kWあたり7万円の10kW以下、70万円までとかいう奴です。

これを見て70万までは補助金を呉れるのかと思って更に家庭用発電パネルの金額をシャープのホームページで見てみたら、家庭用のパネルの総発電能力は3kW程度との事で、てことは21万円しか呉れんのか、と愕然。無いよりあったほうがいいのは当然としても、これじゃあなあ。
モデルケースでの発電システム設置見積りを見ると、そこには総額で200万円とはいわず230万円とか300万円とかといった数字が見え隠れしていました。ある程度の値引きを期待したとしても......、という感じです。いっその事、それに消費税非課税にするとかないのかなあ。

ディーラー時代によく遭遇したパターンで、車の購入予算の算段などで四苦八苦した人が、いつの間にやら家を新築してたなんて事はよくありました。もちろん住宅資金とクルマ用のお金は別にしていたのでしょうが、それでもあれだけ購入総額で虐められた(つまりはものすごく値引き要求がしつこかった)ワリには住宅購入の頭金くらいは持っていたわけですから、そういう光景を目にしてものすごく複雑な気持ちになったことも2度や3度ではありません。まあ、そういう「人として嫌なやつ(出来ない要求を通そうとする人)」は得てして売ったあとはそれっきりになりがちですし、決められたこと(リコールの通知とか)以外の事までやってあげる気にはなりませんし、事実それ以降係わり合いになることもありませんでしたからどうでもいいんですが。

話がずれました。そういう新築の際には気分がいいものなのか、気持ちが大きくなってしまうものなのか、どうも「ついでに......」なんて言いつつ、でっかいテレビや冷蔵庫などを新調してみたり、はたまたクルマも新しくしちゃいました、なんて人もいましたねえ。だからというわけではありませんが、太陽光発電パネルなどの設備総額を考えると、設置の手間も含めてそういう新築時でのセット販売でないと難しいのかもしれません。
でも新築という事は建築廃材の発生もあるわけで。それもまたまた本当にエコになるのかなあ、と思わなくもありません。「高断熱・高気密」の家屋はたしかにエアコンの効きもいいのでしょうけど、それは逆にエアコンの使用を前提とした建物になるのでしょうし。それよりは、はなからエネルギー使用量そのものが少ない家のあり方や生活スタイルを模索した方がいいのでは、という気もします。今さら戻れない、なんて意見もあるのでしょうけど。

そうそう忘れる所でした。冒頭の太陽光自家発電システムの導入障壁を低くするアイデアとして。これはもう簡単。まず一番の問題は設置費用総額なわけです。これが50万円とか言う金額ならば柴田家に設置するのも考えなくもありません。というより即決してもいいくらいです。ところが200万オーバーといわれると........、となる訳です。
導入を促進したい側からすれば「売電でトントンになります」とか「オール家電の場合はオール家電用の電気代になる」くらいのことをいっているのでしょう。もちろん強制的に行政側から「太陽光由来の売電分は買取価格を高くしろ」という政策も重要でしょうけど、現状の価格からすると20年位かかってやっとどうにか額面上の帳尻が合うかどうか、という事になるかと思います。
それならそれで、太陽光発電システム導入にかかる資金には無利子の20年ローンを提供する、てのはどうでしょうかねえ。売電の売上をそのまま返済に回せませんか?これなら。ヘタげに炭素税を導入してわけのわからんハコモノを作ったり新組織をつくって余剰人員を温存したりするとか、システム投資に関わる分の減価償却の計算方法をいじったり、という姑息な技を考えるよりは遥かにましな気がするんですが。

2009年6月17日水曜日

リンクさせていただいているサイトは普段柴田がよく訪問させていただいているところです。その中に「今日の必ず得する一言」というサイトがあります。おそらく今までに掲載された文章を察するに九州は福岡あたりの大学関係の方かと思います。

その中の、すいぶん前に投稿された文章中に「はっ」と思うものがありました。今改めて文章を確認しなおした訳ではありませんが、文意としては「経済学の中には持続し続ける成長という経済モデル以外に数値としての現状維持をしつつ質を高めていくという方向の成長モデルを描くということはないのだろうか」といった風のものであったかと思います。

モノを買い続けるということは一つの豊かさの象徴であるとは思います。ですが、果たして日々買われ続けられるモノたちは本当にその機能を発揮し寿命を全うしているのか、と思わなくもありません。愛情の対象足りうる品物も数多いとは思いますが、それでもその品数が増えれば増えるほど一つ一つに注ぎ込まれる情熱の量は減っていくのではないのかな、という気はしています。

より多くの皆様に商品を供給させていただく、という世に数多ある企業の基本姿勢は素晴らしいとは思いますが、新しい商品を開発するということが職責ともなると、求められる新規商品数をこなす為にその質が玉石混交となることも少なくありません。
先月の「しばた新聞手配り版」に掲載しました新車ディーラーの内部事情「てっぽうを撃つ」「天ぷらを揚げる」と似た光景がメーカーサイドでも繰り広げられていることもあるだろうとは想像に難くないところです。ディーラー時代、いくらなんでもこれは......、と思わずにはいられない車たちも数多くありました。見方を変えれば「こんなもんでよくってよ」っていうお客さんもいましたから、それはそれなりの御選択でいいのでしょうが、個人的には積極的にお勧めしたくない車たち(それ以外の商品もありましたが)も確実にありました。

世の中にはとにかく新物好きという人たちがいらっしゃいます。で、またそれがいいと確信すればよほどの金額でもない限り「くれ」という事に相成る人たちです。初期のプラズマテレビ然り、サイクロン式掃除機や斜めドラム式洗濯機、ごく初期のブルーレイもそうだったでしょうし、EDベータなんて機種もその一つだったかもしれません。もちろんメーカーとしては初期投資のいくらか分の回収と宣伝効果もありますから大変ありがたい存在でしょうし、少なからず柴田自身もその恩恵に預かっているのは確かです。ただ、得てしてそういう人たちは「飽きっぽい」事も多いような気が.....。


消費者庁創設の準備が進んでいる、とのニュースを耳にしました。もちろん売る側のモラルを確立し消費者を守るということがその第一義なのでしょうが、それと同時に消費者の質を高めていただく事も非常に大切なことと思います。
売る側の信用失墜がおそらく原因なのでしょう、たしかに消費者を守るということは必要なことです。おそらくそこに端を発し保険などの通販は非常な勢いで増えてきました。
ただそこには「商品選択を自身が行った」という自己責任も当然の事ながら付随しています。ただ、そのワリには例えば「保険料が安くなった」といったメリットのみを享受しようとし、きちんと契約内容を読むといった義務は割合簡単に放棄されているキライはしなくもありません。まあ、たしかに保険約款が分かりにくいことは事実だと思いますけどねえ。ただ、だからといって保険は代理店加入が一番などと言うつもりはないですけどね。代理店も玉石混交だから。結局は選ぶ人そのものが問われる時代になっている、という事と思うのですが。

2009年6月12日金曜日

えこ2

ネットで見てみてサクッと見つかったのが先日疑問に思っていた「排出量算定」です。
基本的にはやはり「燃やす原料×産業別排出量係数」ということなのだそうです。しかも自主申告制での。何だかこの時点で雲行きが怪しいですねえ。
単純にいって95%くらいは石油由来の二酸化炭素という事ですから、そこからどのように枝分かれしていくのか?という事なんですね。そこで思ったのは「やっぱり石油を原料とする機関の高効率化」こそが結局は最短距離なんじゃないの?という事なんですが。

例えば良く言う「太陽光発電」ですが、あれってパネルの生産にかかる電力がものすごいということですし、出来たパネルの発電効率は言うほどよくない。また周辺機器の寿命もあるしシステムの廃棄に関しての問題はまだまだこれから、という事ですから「それって大事に大事に石油から発電した電気を送電ロスの無いように地産地消し、しかも効率のよい電気機器で使う」方がトータルでは費やした資源量は少なかった、という事にならんのでしょうかねえ。なんかシステムの生産・配備ありきに聞こえて仕方ないんですよねえ。つまりは「迂回融資なんてことを考えるより直接貸し出せよ」みたいなね。

ハイブリッド車にしても、軽量化されたエンジン動力車と、バッテリーやモーターなどの重量物を抱えたハイブリッド車と実際はどうなのでしょうか。
先日発表された新型プリウスは1.8リットルのガソリンエンジンと60KW(82馬力)のモーター、28個のニッケル水素電池を搭載している、という内容で1350キロ~1310キロの車輌重量となっています。ほぼ同等の大きさのトヨタ車としてはプレミオ(コロナ)があります。ではこちらの車輌重量は?というと1220キロ(1.8リットルエンジン車)。つまりモーターとバッテリーで優に100キロくらいの重量物を既に積載している勘定になります。

でも燃費はいいじゃないか、という声はあると思います。もちろんトータルとして(先ほどの迂回融資になっていやしないか?という観点で)ガソリンのエネルギー変換効率が上がっているのならば文句はありません。ただ疑問なのは「卸したての新車のうちはいいかもしれないが生涯燃費はどうだろうか?」という点と、やはりその生産から廃棄にかかるまでのトータルエネルギーですね。
21キロものトルクを発生させる(これだけトルクがあれば相当な所までモーターだけで走れるでしょう)モーターにはレアメタルがえいやっと投入されていながら、その回収サイクルの確立はまだのようですし、ニッケル水素バッテリーのリサイクルもまだ未知数と聞きます。
初代プリウスの頃はとにかくバッテリーを大事に(寿命を縮めないように)使う設計だったと聞きますが、発売後の「加速が悪い、高速道路で速度が伸びない」などといった無茶で無知ともいえる要求を飲んでいった結果、バッテリー残量をある程度無視してでもモーターを高電圧化・高出力化して使う方向に来てしまったようです。
ではそれの何がいけないのか?という事なんですが、基本的にはバッテリーというものは出力はともかく、入力にえらく手間がかかる、という性質らしく、残量が減ったからといって急速充電させようとしても一気に充電というわけにはいかない、という物なんだとか。でもそこのところをムリヤリ、という形にすると今度は寿命が減る、発電能力が落ちる、などといったデメリットが出る。
回生ブレーキで捨ててしまうエネルギーが回収されている、という論法はこのバッテリーの充電という観点からすると口の狭い瓶に、コップの水を一気に空けて入れようとする行為に等しい、という事なんだそうです。つまり電気を入れようとしてもかなりの割合の電気はそのまま捨てられている、という事。

結局新車のうちはいいとしてもバッテリーが劣化し始めるといつまでたってもエンジンがアイドリングストップをすることなく、いつまでも回っているでしょうし、大きくなったエンジン1.5→1.8はガソリンも喰う、ということでしょう?もしくは当初永久保証だったバッテリーもいい加減安くなった(15万くらい?)ので、保障期間(5年10万キロ)を過ぎた方で御不満があったら交換して下さいということなんだろうか?

まあ、あれこれ言ったところで既に8万台超の受注という事ですから大した物だと思います。全ては杞憂に終われば言うことはないんですけどね。個人的には新型プリウスを買うつもりはサラサラないんですけど。

2009年6月11日木曜日

感無量


多分小学校3年か4年生くらいのことだったのだろうと思います。え?なんのこと?と言われるかも知れない。もちろん初代ガンダムの初放映の事です。
当時はわけも分からずに見ていました。そしてなんだかいつの間にやら放映は終わってしまっていました。しばらくするとプラモデルが発売され、いつもの如く兄貴が浮かれていたのがうつってしまい、そのうち狂気のガンプラブームが起こっていた、という感じでした。東京ではアニメ新世紀宣言なんてのを後の永野護あたりがやっていたらしいけど、こっちはそんなこと当時の柴田は知りません。

そのうちガンダムシリーズのプラモは行き詰まりが表面化し始めました。他のテレビシリーズは何とかガンダムの後継をと躍起になっていたようでしたが、結果からすれば失敗に終わり、結果本家本元のガンダムシリーズの続編が製作されることになりました。「Zガンダム」です。
思い起こせば初回Zガンダム放映日は柴田の高校受験の前日の事でした。翌日の事はともかく、当然ことながら兄貴と「おおー」とか言いながら、ガンダムMK-Ⅱが画面上で動いているのを見て感嘆の声を上げていたのでした。


「Zガンダム」初回放映当時から「リアル」とは何ぞやという感じで、初代ガンダムから遥かにディティールの増やされたモビルスーツたちが画面上を乱舞し、またそれを眺めていました。
それらは時を追うごとに先鋭化・肥大化・恐竜的進化を遂げ、あるときは先祖がえりをしつつも後年、リデザインというのか、一体全長18メートルという大きさとは視覚的にどういう風に映る物なのか、という観点から再構築されたりしたりしなかったり。何はともあれ「リアル」という合言葉の元に高解像度、高密度情報を注ぎ込まれ、そのディティールや細部構成は成長し続けました。
ターニングポイントは模型誌「モデルグラフィックス」誌上で展開された「ガンダム・センチネル」だったのだろうと思います。そこでカトキハジメ氏によってリデザインされた初代ガンダム中で登場したモビルスーツたちは、様々なフォロワー達によってあちこちで絶大なリスペクトを受け、ガンダムにとっての本編である「アニメ」上でそのデザインが採用されたり、さらにはガンダムの続編でカトキ氏本人が新ガンダムのデザインを担当するまでに至ります。

その後も色々あるのですが、めんどくさいので割愛。
もうひとつのターニングポイントはアニメ「装甲騎兵ボトムズ」中に登場する兵器「アーマード・トルーパー」通称ATの想像上の1/1モデルを作ってしまった人(個人)がでてきてしまった事でしょう。
それはデザイナーのイメージソースにもあった素材としての「鉄」をそのまんま加工して作られたもので、言葉でしか通用していなかった「リアルロボット」を現実(想像上での、という注釈はつきますが)の大きさのオブジェとして、鉄という素材の圧倒的な質感を纏ったうえで立体化され、一般公開されました。
簡単に言えば「あ、できるんだ」ということであったのでしょう。今回の1/1ガンダムの立体化にあたり、このコウゴロウ氏のATの存在は極めて大きなものであったかと思います。


そして今回。1/1全長18メートルの初代ガンダムが立体化されました。当初心配された1/1に移行された時の立体化データの「玩具っぽさ」加減は、この30年にも亘りファン達によって投入され続けた「リアルさ」という記号・情報の大量投入によってかろうじて免れ得たのかな?という感じです(それでも頭部の何ともいえない嘘っぽさは、何ともしがたい感じです)。感無量です。
それこそリアルタイムで「ガンダム」というキャラクターの成長を見守り(?)続け、こんな立体物を目の当たりに出来る時代までこぎつけた、というかなんというのか。


でも1/1の写真を目の当たりにして思うのは「やっぱりこんな兵器はありえねー」ってとこでしょうか。いくらミノフスキー粒子が実用化されたとして、有視界戦闘が主流になったとしても、こんなに目立っちゃあ「当ててくれ」ってなもんじゃないですか。よっぽど「戦闘行動におけるレギュレーション」が変更されない限り、こんな兵器はありえんなーと強烈に思わせてくれる副産物付きの立体化でもありましたね。

2009年6月9日火曜日

エコロジー

世の中エコ流行りになって久しいようで、今日もまた京都議定書以降のどうたらこうたらで、ドイツあたりからだったか「暫定7%なんて生ぬるい。日本がそんなことでは他の国が言い逃れる隠れ蓑にもなってしまうから25%は行ってもらいたい。」なんて無謀な事をいわれちゃっているようです。
もっとも経済活動の縮小はイコール二酸化炭素の排出削減には一番効くでしょうから人口の自然減なんかも含めていつの間にやら達成しちゃたりするかもしれません。ま、それは冗談ですが。

京都議定書自体、その基準年が1990という事で東西ドイツの合併前だとか、ソ連崩壊前だとか、中国経済が急激に伸びる以前であるとか、色々な要素があるわけで。ドイツなら以前の東ドイツ地域は排気ガス浄化システムの作動前であることから、足して2で割ればある程度何もしなくても議定書の目標値は達成できる算段が最初からついていたはずだとか、ソ連も同様、中国などはわが国の経済成長を阻害するつもりかなんて、自国のパイを付けねらう欧米を向こうに回してチャッカリ自分たちだけは規制対象外にしてしまってたりする訳です。

その他バーチャルウォーターでしたか、農産物を生産するに当たり必要な水資源は、その作物を輸入した国が水資源を輸入しているのと同じだ、なんて事を言われたりもしています。何のことはない。またしても食糧自給率の低いイコール食糧輸入大国である日本を狙い撃ちにした論法です。
もちろん賞味期限が切れたとかいってすぐに食べ物を捨てるような風潮は論外ですが、それにしても言われっ放しなんじゃなのかなあと。

平均してエネルギー効率の悪い製品を使う国々に、環境負荷の小さく、より省エネルギーな製品を提供すれば、それはすなわち輸出先の二酸化炭素排出低減に寄与したことになる訳ですから、その低減分はもとより、日本国内で費やした生産にかかわるエネルギー分や研究開発にかけた時間や金額分に適当な係数をかけた排出低減相当分・寄与分もきちんと考慮されるべきなんではないでしょうか?
それこそ排出権を買えなんて商売は、環境ゴロのやることにしか思えないんですけどねえ。


ひとつ教えて欲しいのですが、知っている方。この二酸化炭素排出量なんて一体どうやって測っているのでしょうか?二酸化炭素の平均濃度の変化でも計測している?それとも大雑把に輸入原油から類推される生成二酸化炭素量の予測値?

以前、遠すぎる発電所からの電力送電ロスを書いたことがあったかと思います。それこそ送電線の銅線や鉄塔の鉄資源、周辺への電磁波の影響など、あんまり歓迎できないムダや悪影響は分かりきっていることだと思うのですが。何で地産地消を目指さないんでしょうかねえ。東京・神奈川・千葉あたりでの消費電力の消費割合なんて相当なもんになるはずなのに、わざわざ日本列島を縦断して新潟や福井から送ってきている分もあるんでしょう?
また浜岡原発の一号機でしたか。解体処分に掛かる年月も相当な長さに亘るようで、いくら原発の発電期間中の二酸化炭素排出量が少ないとはいえ、その原発建設時に投入されるエネルギーや資源と解体・廃棄に投入されるエネルギーや資源もあるわけで。今現在原発の発電比率が高まっているようですが、それは休止されている発電所(水力・火力の)が増えているからなのか、それとも原発そのものの数が増えているからなのか。その辺の内訳を知りたいですね。結局はトータルのエネルギー効率という話なんですから。どうもその辺の話は置いてきぼりになっていて、まずは建設計画・資源の浪費が前提になっているような気がしてなりません。
それより何より、工業生産という産業が「常にゴミとなる」べく運命ずけられた製品群を次から次へと生み出し、それを消費してもらい続けるというサイクルを前提としている形態である事が一番の問題なのかもしれませんが。
であるからこそ新たな欲望を創出するべく手変え品変え、様々な製品群が世にあふれ続け、また廃棄されていき、欲望を刺激されすぎた消費者はかえって不感症になってしまい、逆にどの製品を見ても興奮しなくなっているのが今の世の風潮なのかもしれません。
特にクルマはそうなのかもしれませんねえ。

2009年6月8日月曜日

金でも買っとこうか

医療費が...、とくれば財源が無いときて、年金制度が...、とくれば既に破綻状態で.....、と来る。でも日々公務員への給料は支払われ、公益法人やら財団法人やらには資金注入は続いていて。街中の舗装の劣化には見向きもしないくせに、そのくせほとんど歩行者のない田舎道にはこれ見よがしに立派で幅の広い歩道が作られ、そのくせ車道の幅はあんまり変わっていない、とか。

ぺろの散歩の道中気になるのは、ガキの頃は田んぼだらけだった村櫛の町も休耕田だらけになってしまっていて住居になってしまったところもあればただの荒蕪の地と化してしまった箇所も少なくなく、でもそれはそれで小鳥のさえずる場所になってしまっていること。
専業農家だった高齢者が亡くなってしまえば休耕田。兼業農家も補助金狙いで減反と言われれば休耕地に。こうして耕作されなくなった土地でも畑だと言われればそれなりの税金しか掛からないのでそのまま持っていて、それでも他の百姓家に売るでもなく、そのうち公共事業でも打ち上げられて土地の買収に引っ掛からないかなー、とか言っている始末で。なんだかデタラメだよなあ。

そんなんでもなんだかんだ言ってお上のやることには国内では信用が厚いようで、国債の発行があれば律儀に皆さん買い続けているらしく、発行残高やらその他の公債やら、全てを足し挙げると2000兆円にもなるだのならないだの、なんて論なんかも目にしたり。まあ、あきれるやらびっくりするというレベルを超えてそんな数字を現実のものとして考えることができないという位の摩訶不思議な数字です。
で、どうやらそれは日本国民が使ってもいいよ、と了承した事になっているようです。つまりは最終的には国家破産なんて状況になった際に誰かがその清算をしなければならない訳ですが、個人的には了承したつもりもないのにその保証人になってしまっているという。それほんと?って感じですね。

自分はまだその時には影も形も無いので知る由もないのですが、戦後間もなく実際に預金封鎖も行われている訳ですし、今もやらない保証も無いわけで。まあそれでもこんな御時勢ですから各国が相互監視のうえでそんな事態を引き起こさないように目を光らせているとは思いますが。
ただ、あまりにも現実的でない借金総額を見ると1万円を1円とするといった円の切り下げであったり、今ある公債はすべて破棄するとか、もしくは利子は払うが償還そのものはしない、もしくは償還期間をいきなり5倍10倍に引き延ばすなんて事でもしない限り帳尻は合わないですよねえ。

となれば、少なくとも貨幣価値として最後の砦たる金にいくらかでも交換しておくのもどうか?なんて思ったり思わなかったり。別に価値が上がることを期待するわけではないのですが、少なくとも無くなることはないだろうとね。今の紙幣は兌換紙幣ではないですから「コレでおしまい」なんて言われたらそれこそただの紙切れでしかないですもんね。

そういえば鹿児島にある菱刈鉱山。トン当たり40グラムの金含有量なんて数字が載っていました。ふつう4~5グラム程度という事ですし、また他の鉱山はそれで採算が合っているのでしょうから、世界最高品質の金山と言われる訳ですね。同じ手間で10倍の金が採れるんですから。さすが住友、いいところを押さえてるなあ。

2009年6月6日土曜日

民主党

なんか鳩山君に代わってから随分民主党ははっちゃけた事を言っているようです。元従軍慰安婦と名乗り出た人への全数賠償だとか、永住外国人への参政権付与だとか、なんだかわけの分からんことばかりです。

江戸時代の末、ペリー来航後の対応の拙さを発端として幕末の騒乱が始まり、大政奉還・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争を経て明治維新までたどり着いたわけですが、当時の幕府を自民党とするならば、薩摩が公明党あたりの役回りで、長州が民主党というところなのでしょう。
今時の世論としては民主に一回ぐらい政権を取らせてもいいじゃないかという空気もあるでしょうし、自分自身も偶にはやらせてみてもいいじゃないか、という気分でした。ただ、当時の長州もそうでしたし最近の民主もそうなのですが、あまりにも軽率すぎてばかげたことを言い、子供じみた行動や言動が多すぎるように感じます。正直こんな程度では政権の舵取りをさせるのは後の世に禍根を残しすぎるようで、危なっかしすぎてとてもとても、という気がしています。やはり鳩はこの程度か、と落胆しています。

2009年6月3日水曜日

コンセプト

昨日は新型Eクラス(M・ベンツ)を検討中のお客さんのところにお伺いしていました。
話はいろいろな方向に及んでしまい、ベンツはこういうつくりになっているというヤナセのセールスからのお話であったり、今までのベンツ体験談であったり、内装色の好みの話であったりとお話は尽きず、結局2時半過ぎにお邪魔してから、そこを辞したのが7時近い時間になってしまっていました。まあよくもそこまで話題が尽きないものです。柴田の本来の用事は、そんな新型のEクラスが云々などという話ではもちろんなく、火災保険のお話だったんですが、4時間超の時間の内、本題は30分ほどでしかありませんでした。

基本的のその方は「ベンツの中から選ぶ」ということのようでした。ヤナセのサービス(メカニック)面についても特に気にはなっていない様子です。まあそういうことなら別にこちらもわざわざいうべきことはありません。
確かに車検費用は13~15万円ということでそこはヤナセ価格だなと思いました。同じ車重であれば特に整備費用に差はつけていないのでウチの場合Eクラスの車検総額は100,820円になります。そのうち税金分が74,570円(自賠責保険・印紙代・重量税合計)、車検整備基本金額は25,000円(+消費税)ですから、ヤナセの基本整備金額はやはり倍だな、と。まあ別にどうでもいいことですが。

途中、お話は「日本車は乗りにくい」などといったお話にも及びました。曰く「ハンドルの反応が妙にシャープで、適度なダルさ、というものがない。またアクセルの反応が鋭すぎて車速を一定に保つことが難しい、」などなど。
個人的な印象では、日本車(特にトヨタ車)では「静か・フラットライド・快適さ・仕上り(見栄え)品質」が最重要視される傾向がある、と思っています。つまり音は徹底的に遮音し、異音は極力潰す。乗り心地に関しては急な突き上げや揺れを極力押さえる。エアコンはきちっと効かせ、オーディオのバリエーションは豊富に、運転姿勢もお客様が望むならば極力ゆったりと座れるように。一番分かりやすい外装に傷一つあってはならず、内装もぴっちりとチリが合い、シートにほつれひとつ、シート表皮に目立つような傷ひとつあってはならない。というなんだか豪華応接セットのような方向を目指していうようです。
このため、高級車(高額車)に特にこういった姿勢は顕著であるような気がします。アクセルを踏んでもなんだか遠くでエンジンが唸っているなあというだけでイマイチ反応に乏しく、でも乱暴なアクセル操作をするとガツンと反応が返ってくる。車がどういう道を走っているのか、乗り心地が良すぎて(乗員にそうした情報を伝えなさ過ぎて)路面状況が把握しにくい、という感じ。快適さや仕上げ品質が高いのはそれに越したことはないのですが、どうも走る物体としてどう?という感じなのです。

ベンツではこうしている、として自慢されたのはステアリングの中立付近のギアの歯の切り方の感覚を広くしておき、一定確度以上の切れ角になると歯の感覚を狭くしてハンドルの切れ角における反応をシャープにしている、というものです。
まあその辺の真偽はともかく、でも気になるのは「いつも一斉に一辺倒」という習性といったらいいんでしょうか。ハンドルの操作力は軽ければ軽い方がいい、と言われれば無批判にとにかく軽い方向へ、とエスカレートして行き、行き着いた時には常に小指だけでハンドルが回せるというところまでいってしまいました。そこまで行って「やはりここまで来ると却って危険だ、やはり一定度の操舵力を必要とするくらいの方が安全だ、として今度はスピードの遅い時は軽く、スピードが乗ってきたら逆にハンドルは重く、なんて方向にまたまた収束していきました。次にはプジョーの乗り味が....、なんていってみたり燃費の追求や車輌の統合制御なども含めて最近は電動パワステに御執心のようです。
その他にもオートマチックなんかもそうですかね。多段化といえばみんな多段化してしまい元々3速だったのにオーバードライブギアを足して4速という所で落ち着きかけていたところに2000年ごろから5速6速と増えていき今では8速ATなんてものまである始末です。普段使われる速度域や必要とされるパワーを考えればそこまで必要ないはずなんですけどねえ。で、今度は燃費向上の切り札だなんて売り文句つきでCVTなんかもあったりしているわけです。
たしかにCVTはある意味究極の多段変速であるのでしょうが、あれ実際に運転すると気持ち悪いんですよねえ。燃費を気にして乗るんならとにかくアクセル開度一定でスピードにのるのを我慢の一手でクルマまかせでとなるのですが、で、そうしているとすぐ次の信号で捕まってしまいイライラはつのる一方になってしまいます。ついにはがっとアクセルを一踏みしてしまうわけですが、これで今までの我慢していた分の節約分は一気に吹き飛んでしまいもとの木阿弥になてしまうという。まあ、それでも少しは燃費は良くなるようではありますが。少しだけ。

なんかこう「こうしたい・ああしたい」というコンセプトが見えないんですよね。手段としての新技術は色々見え隠れするんですがそれをどう使うのか。または目的を明確に設定して今ある材料をどう組み合わせることで実現可能と出来そうなのか。
本当かどうか知りませんが、新車が出て2週間後には次のニューモデルの開発がスタートするのだとか。既に大体の次のモデルの発表時期は決まっているのですから(もちろん新型車を出す前に今回は何年のモデルサイクルで月の目標台数何台、トータル生産計画台数何台、というところから逆算して原価幾ら、減価償却幾ら、儲けはいくらで、研究開発費はここまでなんて計算をしてある)、スケジュールを逆算するとこれくらいには始めていないと間に合わないだろうし、一番目に見えない時期開発車輌の開発コンセプトを練る、なんて時間は削られまくるんだろうなあ。

悪く言われることの多いトヨタ車ですが、個人的に好きな車は何台かあります。初代エスティマ、初代セルシオ、初代MR2、初代プリウス、初代ヴィッツ。これらはトヨタ車の中にあって非常にコンセプトが明確な車たちです。プランニューモデルばかりであるが故に参考車がなく、おそらく開発者達の気苦労は計り知れないものであったでしょう。決して商売的に大成功した車ばかりではありませんが、こうした明確なコンセプトを持って生まれた車たちは、やはり一本芯の通ったものを感じます。

先代継承、キープコンセプト。確かに裁量の範囲は狭まっているのでしょうし、クリアーしなければいけないことは以前にもまして増えているのでしょう。
でも負けないで欲しいです。ここらで一発アドバルーンでない技術者の意地ともいうべきモノを魅せつけていただきたい所です。