2009年8月10日月曜日

当時のその時。

いつもヘラヘラしていて気ままに見えるらしい柴田ですが、実は真剣に自殺を考えたことが何度かあります。物的証拠としてはそれに使おうかとも思ったこともある剣鉈(刃渡り一尺ほど)がまだ手元にあったりとかね。さすがにもう使うつもりはないですが。
胸に突立てた事はあるのですが、それ以上に押し込む勇気がなくて止めました。あとは、そこまでする勇気があるんなら、もう少し行動で示すことのできることもあるだろうと思い直す程度の冷静さ(?)が少々あったことが幸いしたのかもしれません。

以前「完全自殺マニュアル」なんて本がありましたが、これも読破してしまいました。自殺には首吊りが最適だとか、手首を切るという行為より、中森明菜のように肘の内側を縦に深く切ったほうがいいとか、なんか色々書いてありましたねえ。
続編として「完全薬マニュアル」とかいう向精神薬とかを扱った本もありましたっけ。でもなんかその本の存在自体が気味悪くもあり捨ててしまったので、今現在、手元にはありません。まあそんな本を読んでいた時代もあったのです。



「自殺白書」とかいう本があります。それ自体を手に取ったことはありませんし、読んだこともないですが、こういう便利な世の中ですからネットでその概要を見ることは出来ます。
その最初の統計数字によると、交通戦争なんて呼ばれた交通事故による死者数1万人をはるかに超える3万人以上の人が昨年は亡くなっているようです。ひとつ間違えば僕も、その中の数字のひとつになっていたかもしれない可能性もあったわけです。
でも、ここまでの数字になると、これは立派な戦争状態である、と言ってもいいと思います。イラク戦争と比べてもひけをとらないレベルです。では何と何が戦争状態なのでしょう?単純に言えば「個人対社会」とか「個人対組織」という事になるのでしょうが、では何で、そこまでいがみあい対立することになってしまうのか。
ひとつには、会話、対話、相互理解の不成立ということなのでしょう。
勿論、相手には相手の言い分があり、こちらにはこちらの思いがあり、双方ともに自分の方に分があると思っているだろうし、何でこんなことが分からないんだろう、と双方ともに思っていることが悲劇なんでしょう。


もちろん解決策はあります。それは当事者本人が、思い詰めている事を「取るに足らぬこと」と、思えるように自分を仕向ける事です(でした)。
また、仕事面で思いつめているのならば「嫌ならやめる、という選択肢だってアリだ」と、現状に固執することを止めるのもいいでしょう。なんだかんだ言ったって「米の飯はついてくる」もんです。別に稼ぎの種は今の職場でなくてもいいのですから。
「何なら百姓でもいいし、工事現場の旗振りだってできるさ」という割り切りを自分では当時しました。
とは言いつつ、今だから言える事でもありますが、当時はそれでも随分と追いつめられてもいましたから、近くにある精神科の病院へも行こうかと思案したものです。
ですが当時、そうした自分を2~3m上空の後方から眺めているもうひとつの自分というのも意識していました。「ああ、傍から見たら俺はこんな姿をしているのか」と思ったものです。そうした他人の目から見た自分を意識してみる、想像してみるのもいいかもしれません。

大多数の人たちは所詮サラリーマンなんですから、米の飯は黙っていても呉れるんです。いいじゃないですか、それならそれで。お役に立てない悔しさはその人の真面目さの裏返しでしょうけど、まあそれはそれ、いつか見返してやるくらいに思って、「いまは給料泥棒でごめんね」位の気軽さがいいと思います。
ただ、以前と違っておおらかさがなくなってきていう御時勢ではありますから、「即戦力即戦力」なんていわれちゃいますけど、やれることからやる、位のスタートでいいと思います。
とは言いつつオートサービスシバタは人を雇う余裕なんてないので自分ひとりで全部やるしかないし、雇うからには即戦力でないと困っちゃいますけど。さっきと言ってることが違いますけどね。

でも所詮人って1人では生きていけないんで、肩肘張らずに「助けてもらってありがとうございます」位のスタンスでいいと思うんですけどね。意地を張ることも時には必要でしょうけどもね。

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