2008年9月6日土曜日

トヨペット時代、何人かのお客さんが定年を迎えるのを目にしてきました。
ある人は抜け殻のようになり、ある人は最初の頃は趣味に没頭していましたが、おそらく間が持たなくなったのでしょう、日々をなんとなく過ごす様になていました。
またある人は、また勤めに行き始めたら車を買い替えると言いつつ、ぼんやり過ごす快適さと言うかぬるさに浸かりきってしまい、結局働きに行く気が起こらず、そのまんま。こりゃあ、車の代替話にはいかんな、という事で次第に足が遠のいたある日、たまたま近くを通りかかり、久しぶりに寄ってみたら亡くなっていたとか、そんなこともあったり。

やっぱり、定年って概念はあかんのじゃなかろうか?と思うこの頃です。だって、働けるくせに飼い殺し状態じゃないですか。「クレクレ」のみの状態の人間の醜さは、ちょっとねえ。「餓鬼」って言葉もあることだし。

そこがゴールと思い、其処からは悠々自適なセカンドライフと思うのでしょうが、それこそ、功成り、名を上げ、と言う状態の人ならそこでおしまい、もいいでしょうけど、一般サラリーマンまでがそれを夢見ると言うのは悪平等じゃなかろうかな、と。たしかに何人たりとも1日24時間が過ぎていくのは同じなのですが、年長者が必ずしも.....、とは思わないし、誰しも同じ60年なら60年を過ごしてきた訳でもない訳ですから、一律年齢で区切ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎやしませんかと思うのは暴論なんですかね。

で、その悪平等には当然コストが付きまとう訳で、誰が背負うように出来ているかというと「後の世代」って、おい。
今まで年金払ってきたじゃないか、というのはいいのですが、それを言うなら賦課方式の年金受給の設計なわけですから、あなた方が払ってきた年金は、それよりも上の世代に対して払ってきたわけであって、これから貰う年金の原資は現役世代から徴収された分なわけでしょ?だったら、こちらが気持ちよく払えるだけの理由なり体制なりを説明してよね、と思うのは言い過ぎなんでしょうか。
遊んでいながらにして年金貰う。これはオレの権利。とか言いつつ、時間をもてあました爺さまや婆さまたちは、エアコンが効いてて快適なジャスコで日がな一日たむろしてみたり、パチンコに行ってみたり、ガーデンパークに行ってみたり、中にはデパ地下の試食品を食いまくって、店員に嫌がられたりする人もいるやに聞き及んでいますが、醜いなー。
ここでもう一度、「労働の義務」ってもんをきちんと言うべきじゃないでしょうかね。

人として、せめて目障りな生き様だけはしたくないとは思っているのですが、現状は反面教師とするしかないのかな。

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