2008年9月18日木曜日

先日の記事について。

内心こんなこと書いて、とか思いながらも「公開」ボタンを押して、あーあ、とか思ってはいたのですが、言われちゃいましたね。コロパパさんに。

かいつまんで言えば最後の言葉、「弱者に対して優しい社会」であって欲しい。ちょっと書いている内容が酷すぎやしませんか、ということだと思いますが、そういう受け取り方でいいでしょうか。


ご指摘の部分はごもっともだと思います。ただ、こういうときにいつも引っかかって脳裏に浮かぶのが「弱者の暴力」という言葉です。
弱者へのいたわりは人としてのやさしさの部分の発現だと思います。ただ、だからといって、それを受け取る側・受ける側があまりにも無自覚になってしまい、むしろそうされるのが当然だという態度になってしまうのでは本末転倒ではないでしょうか。

好きでこういう状況・状態になったのではない。それはそれとして、だから補助・支援を受けるのが当然なんだ、では違うんじゃないですか、と思うのです。全員が全員そうと言っているわけではない。もちろん、好きで日がな一日ジャスコあたりで時間を潰している人ばかりではないでしょう。でも、「優しさ」と「甘やかす」のは似て非なるものとも思うのです。



これは個人差もあるところだとは思うのですが、個人的にはあまり現在の「公」という存在を信用しきってはおりません。
例えば年金の制度にしても、本当に社会的なコンセンサスの取れた制度でありえているのかい?と思うのです。例えば支払いと受け取りの金額の世代差ですが、もらえなきゃ困る、という現受給者は、少なくとも現支給額の維持を言うでしょう。そして高齢者層で地方の方が投票率も高く、しかも1票の格差が大きい訳ですから国としても、そういった得票率の高い、1票の価値の高い層の声を如実に反映させようとするでしょう。
ところが、現役世代は、そういった向きに無関心であることが多く、特に若年層であればあるほど「投票するだけムダ」という意識が高くなる傾向が強いように思います。


北欧のような福祉国家もいいでしょうけど、それを目指すなら(そうでなくても)、まずは運営者側(公)の意識向上が先であるように思います。商売をする側からすれば金銭の透明性なんてものは初歩中の初歩のはずですが、どうもそれに関する躾がなっていなさ過ぎる気がしてなりません。

江戸時代の刑罰基準である「公事方御定書」をサラッと読んだことがありますが、金銭の横領に関する刑罰は非常に厳しかった記憶があります。確かに当時の貨幣価値が非常に高かったということもあるのでしょうが、公務に携わる人間である以上、それくらい金銭に潔癖であるべき、位の意識があって欲しいものです。


ああ、またなんか話が違う方向へ行っちゃったような。


0 件のコメント: