2009年2月9日月曜日

ウチの嫁さんと結婚して最初の頃、とにかく不思議だった(今でも不思議な奴だけど)のは、異様に「賞味期限を気にする」ということでした。

だいたい賞味期限なんてものは、おおよその「風味が損なわれる」らしい日数よりもかなり余裕を持った設定だということはかねてより耳にはしていたので、特に気にもしていませんでした。ところがウチの嫁さんはひどく気にするのです。
「あ、これ今日が賞味期限だから」とか「あ、これ明日が......」とかいうのが連日の話。まあ、それ以前にそこまで連日にわたって賞味期限切れが続く方も変なのですが。

そこでもちろん、賞味期限切れについてのウンチクとともに、「そんなことより自分の味覚と嗅覚を磨け」といったのですが、いまだそれが改善される見込みはなく、未だに「今日これが賞味期限だから....」が続いています。とにかく額面どおり受け取ることしか出来ないというか、それ以外に判断基準が無いといったらいいのか。自分の経験を基にした判断というものが出来ないのか?

それとともに直らない代表格が、とにかくやたらと「お医者さんに行く」という行動パターン。なんでも医者に行く。風邪をひいた、お腹が痛い、目の奥が痛い、腰が痛いなどなど。それ以外にも犬の挙動がおかしいと言っては「獣医に行く」です。予防接種やヒラリヤ・狂犬病に伝染病に、などなど周りに言われるがまま、という感じ。
はたまた、「今日は寒いから、ペロがかわいそう」だのと言っては「今日はウチの中に入れてやらんでもいいかねえ?」ときます。それについては「犬は外にいるのが普通なんだから、いちいちお前の基準で言わんでもいい」というのですが、自分の言葉は人に聞いてもらわないと怒るくせに、人の言ったことはまったく耳に入っていないようで、おんなじことを何度も口にするあたり、もうすでにボケているのか?と疑うこともあります。


ふと思い出したことがあります。以前「明石屋さんま」が司会をしていたバラエティで、年寄り衆ばかりにクイズに答えさせる、という趣旨のコーナーがありました。
その中で印象的だったのが、老齢者の回答は得てして設問の主旨は措いておいて、前回答者や司会者の出したヒントの語尾にしか反応できず、そこにしか目が向いていない回答しか出てこない、というものでした。番組としてはそんなトンチキさが面白おかしくクローズアップされていたような気がするのですが、思い返すと、嫁さんの反応にも似通った所があるような気がして、近い将来が怖くて仕方ありません。
先ず、前後の単語がなく、いきなり主語なしで自分の言いたい所だけ切り取られた言葉が出てくるので。こちらとしては何が言いたいのか状況が掴めません。仕方が無いので「何が」「どうした」という言葉のつながりを聴きだしていくと、そのうち「もういい」とか言って怒り出すのです。けっきょく、つぶやきの域を出ず、相手がいる、そしてその相手に理解してもらうという観念が抜けているのだろうなあ、という感じです。


先のお医者さんの話に戻るのですが、以前コロパパさんのコラム中に「人間年を重ねれば相応に調子の悪くなることはあって当たり前」という趣旨の発言がありました。
そのことについては以前から自分もそう思っていたので、そのことを車に例えて「年式の古い車はそれ相応に不具合箇所があって当然だ。そりゃあ余裕のある予算を組んでそれなりに徹底的に手を入れていけば、それなりにはなるが、それでも「それなりに」というレベルまでで、新車当時のままなんてのは無理な話。で、実際には限られた予算の中で折り合っていくしかないのが実情で、多少の不具合はあって当然だし、それを折り合って付き合っていくのが現実だ」ということをいったことがあります。

そういう意味で言うと、昨今話題になっている消費税の増税は致し方ない、とは思います。きちんと消費の規模というか生活レベルの大小に応じて負担は分担されるべきだとは思います。
ですが、問題なのはただ単に税の負担割合(金額)が増大するだけ、という結果しか見えないことでしょう。福祉を充実させるのであれば、パッチワークでそこだけ手当てする。そのための財源として今までのことにはあんまり手を付けず、それ以外の財源として消費税の税率を上げる、という手法には疑問を感じます。

生活の豊かさ、ということを考えることがあります。つまりは可処分所得の多いこと、ということになるのだろうとは想像するのですが、では可処分所得を多くする為には?ということになると、当然1つは収入金額を増やすということでしょう。一般的には先ずこれを考えると思います。
もう1つには、公共料金という名のものに徴収されているライフラインの維持に関わる金額をいかに抑えるか、もしくは抑えられているか?ということなのでは、と思います。例えばこれに医療や介護を含めてもいいかもしれません。
そしてそれ以外には、いかに自身の最低限の生活について、不安視することがない社会制度ということでは?と考えます。つまりは衣食足りて礼節を知る、ということです。明日の食い物にも困るようでは文字通り「餓鬼」になってしまいます。
庶民的には、最初の「可処分所得の拡大」を求めて「いい(割のいい)仕事」「いい就職先」のためには「いい大学」「いい高校」と、いうことで分かりやすいブランドの学校を考えるのでしょうが、ある意味これは親の果たせなかった夢を子供に託す、ということもあるのかな、と。
ただ、やみくもなブランド志向が「とにかくいいレールに乗ることが至上命題」になると、それでどうする?という気もするんですが。

なんか短絡的過ぎるんですよね。想像力が欠如しているというか。
ラブソングなんかでもそうなんですが、確かに結婚するまでは歌の世界としては美しいものかもしれないし、結婚という区切りもお話としてはきれいに収まるんですが、実際にはそれからの方がはるかに時間としては長いし重要でしょ?
人生も就職や学校に受かるなんてものは通過儀礼でしかないじゃないですか。可処分所得の話に戻すと、いくら収入金額が多くても散財が多すぎちゃあ、いくらあっても足りない訳だし。「小室哲哉」状態ですよね。ホリエモンって言ってもいいかもしれません。
もう少し自分の足元を見つめなおして、自身の存在の再確認からはじめたほうが良いんじゃないでしょうか。人に合わせるんじゃなくて自分の物差しがどのくらい、というところからね。そうすると、今まで見えなくなってしまっていたものも見えてくるような気がします。それこそ夜が明るすぎて、また空気が汚れてしまって見えなくなってしまった天の川が見えてくるように。

なんだか分からなくなって来ましたので、逃げるように今日は退散することにします。うーんなんか酔っ払ってるなー。

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